れいあ

(再)ニヒリズムと幽玄の世界

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はい、れいあです。

今日はヴァレンタインですね。
すっかりヴァレンタインは私の中で「ネタ」になってしまうくらいになっちゃったけどwww
しかーし!これって、なんていうの?いわゆる

モテ期到来!

しちゃったのかしらー。。(女性から

ていうかとにかく初めてなのです。
セッションはじめて今年で7年になるけれど
昨年まではこんなことなかったの。というのは
なぜか皆さまから

「れいあさん・・・バレンタインなので・・・」

ってチョコレートを毎日もらい続けるという。。。
あ、いや、催促じゃないんですよ?
こんなにチョコをバレンタインにいただくの

高校時代以来だわ~~~!!

高校時代はわたくし女子クラスに近いくらい
クラスに男性がいませんでした
男女比3:1ってかんじだったんですよ。(女性3です。
でもなぜか。。。

ヴァレンタインにやたらとチョコをもらいました。

同じくらいもらっている女性がいて
背が高くて宝塚ファンの女性で、本当に
○○様~~!
という王子様キャラの女性だったのですけど
女子クラスなんて、そんなもんなのかなってくらいに
いわゆる女子同士のいちゃつきが多くて(笑;;

わたしはグループに属するのが苦手なため
お昼なんかは毎日いろいろなグループに顔を出して食べてて
ついでに職員室でも食べたりなんかして
ジプシーみたいにね。
一応学級委員をやったりもしてたんだわ。。
結構まわりがガキに思えてしまっていたわたしは

「おまえら本当ガキだよな」

ってかんじのこと言ったりする子で
性格はかなりクールだったな。
熱いけどクール、みたいな人でした。
でも思えばわたしってもともとそんなだったよなって思ったりしました。
クールだからか「怖い」って、社会人になってからもいわれてたんですが
そういわれるとね。。

「もっと怖がらせてやろうか?」

ってからかうのでますます怖がられてしまうとかね。

「きゃー!れいあさんカッコイイ!」

ってかんじでいわれてたんですよ??
いまでは

「れいあさんってふかふかしててぬいぐるみみたい!」

っていわれてますがw

なんていうか、腐女子ですよね、わたし・・・
腐女子ノリが当時はわかってくれないというかね。
そんなわけで腐女子の諸君、セッションで待ってるからなw

3月はまだ上からOKでません。
どうなっちゃうのかわたしにもわからないです。。。

・・・というのは前フリだったわけですがw

昨日のセッションで、
とあるわたくしの過去記事が
ヒントになるという情報がきまして
久々に見た記事だったのですが
10年前の記事になります。

このときから多少は考えが変わったけど
ああ、根本は一緒だなぁと思いながら
こちらに再掲しようと思いました。

わたしは20代のとき

間 の美学

についてずっと考えていました。
そんなこんながベースとなっている
いわゆる「れいあism」というか
わたしの生き方を書いた10年前の記事でもあります。

では、どうぞ!

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ニヒリズムと幽玄の世界(2009.11.03の記事)

三次元的なマジョリティの中に生きるか、
それとも多次元的なマイノリティの中に生きるのか。

それはわたしの命題でもあった。
「群集」は常にわたしを疲れさせる。

宇宙は常に変化し、
絶えずエネルギーは流れ続け、
変わり続けていく。
生成流転する諸行無常のこの世界。
きっと、今は、旅の途中・・・

全ては夢であるのか、それとも
全ては夢であったのか…

どちらにしろ三次元では
制約や束縛が多すぎる世界ということに変わりはない。
そもそも肉体に入ること自体、魂の束縛なのだ。

だからこその「期間限定の学び舎」であり、
今の世でなしえなかったものは休息を経て
また次の世で宿題として取り組むことになる。

これが一般的にいうカルマ、とか業といわれてるものだけど
量子論以前の因果律の考え方では
過去-現在-未来・・・という時空の軸を加えた四次元までに見られる、
(※注:8次元だとダウジングではいわれましたw)
ある特徴的なサイクルにみられる発想にすぎない気がする。

色即是空、空即是色。

般若心経のこの考え方は、
仏教用語の「空」(スーニャタ)についてがメインだけど
2世紀の僧であり仏教哲学者のナーガールジュナ(龍樹)がこれらを体系づけた。
龍樹は「存在」という現象も含めて、
「あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っている」という。

肉体も、魂ですら「空」であり、
つまりはもともと、魂なんて存在しなくて。

やなことがあった、辛いことがあった、楽しいことがあった、幸せ・・・
でも、そんなものなんてみんな、はじめっから何もないものだということか。
一方で万物は因縁(過去に何らかの原因がある)により生成されているという。

しかしこの考えは虚無、つまりニヒリズムではないという説もある。

わたしはそんな10代を過ごしてきたこともあり、かなりのニヒリストだった。
虚無の世界の中にわたしは長く生きていた。

世の中には、そもそも、何も存在しないという思想が、「あちらの世界」を見るまでは、ずっとあった。
わたしがここに見る愛しい誰かの存在も、みな、幻にすぎないのだ。

そう。恋愛だって所詮、幻想にしかすぎないのだ。

「この世を去れば、どうせ、風になるだけだ。
どうせもとから何もなかったのならば、あたしはあたしという存在をすべて消してしまいたい。
自分という肉体的な存在だけでなく、あたしを少しでも知る、誰かの記憶のすべてから、
あたしという存在をみんな消してほしい」

かつてのわたしはずっとそう思い続けてたんだ。

魂なんて、そもそも存在しないなら
わたしは「空」になりたい

そう、ずっと願っていたんだ。

そして、それはいつのまにか
タナトスに向かって生きていくことになっていったんだ。



不老長寿は昔からの人間の夢かもしれない。
しかし人間は科学や医療の力にあまりにも頼りすぎている。

これらは輪廻転生のサイクルを無視している気もしてならない。
この「サイクル」の中に絶対的に組み込まれているものは「自由意志」だ。
つまり、先ほどもちょっと書いた因果律と関係してくる。


その昔、19世紀に「ラプラスの悪魔」という言葉があった。

これは万物の創世主や神とよばれる「絶対的存在」についての概念であり
ラプラスという学者がそれを「知性」と呼んだものである。

自由意志は神の意思であり、
いわゆる生まれて来る前にすでに運命としてプログラミングされている

とでもいうべきか。



形あるものには限界がある。
それは三次元の世界に肉体をもつ魂ならではの苦悩、であり、喜びでもある。

たとえば肉体であれば、そのメンテナンスを定期的に行うことで、
ある程度「限界」を引き伸ばすことができる。

倫理観の問題になってしまうけど、本人の意思とは違い、延命を続けることがある。
そこにあるのは”ソースに帰ろうとする人”と”関係するたち”の
「感情」とか「意思」といった「ある種のコードの場」だとわたしは感じている。

このデリケートな問題について「準備」することは、わかってはいても感情で難しいものだ。
そして最終的には「自由意志」が判断するということになる。

わたしは自分が抜け出た状態になったことがあるので、そのどちらもわかるつもりだ。
あちらの世界は、もちろん三次元の世界ではなく、また四次元でもない。
なぜならば時間や空間といった軸が感じられなかったから。

前にも書いたけど、そこは瞬時にすべてが伝わる世界でした。
そこに言語などは存在しない。
ただ、ただ、感じる、それだけです。
しかし、かといって無機質な空間でもありませんでした。
しかしわたしが体験したのはどの次元だかわかりませんが、
その次元には肉体に近い感情はありませんでした。
(※注:2000年にした臨死体験の感覚をいっています)

そういった感情体がいわゆるカルマとして四次元レベルに残るんではないかなと思うのです。
わたしが体験した次元にあるのは感覚であり「無限の安心感」です。
それは「とてつもなく大きな何かに包み込まれる感覚」なのです。

さきほどの「空」の議論は、今でもされてることですが、
もともとは釈迦が悟りを開いて解いたものを龍樹が体系化したもの。
しかし、わたしの体験したそれは、まったく何もない無の世界、ではありませんでした。
物体が見えない、という意味では「まったく何もない世界」といえますが
色はついていたし、暖かさといった「感覚」はありました。

よく天国を表現する言葉で、楽しいとか、幸せといったものがありますが
そういうものともまた違った場所なのです。
では何かといえばヒトコトでいえば「安心できる空間」であるということです。
しかもその「安心感」は普遍のものであり、永遠です。

わたしがその世界から戻ったとき、子宮のようなものを通った感覚になりました。
この世界に戻ってきたとき、あちらの場所での安心感と胎児が子宮の中で感じる安心感は
ある意味非常に似ているのだ、ということが直感的にわかりました。
そうだ、ソースに帰るあの場所は、あの世界はきっと宇宙の子宮のような
どこかの絶対的に安心できるスペースだ、そんなふうに感じました。



魔術のワザ?のひとつにアストラル投射というものがあります。
わたしは儀式魔術をする以前から、するりとアストラル体が抜けてしまうクセ(体外離脱)があったのですが
このアストラル投射とは体外離脱旅行みたいなものです。

かつて
「オーラの層とチャクラの関係」
についての記事を書いたことがあります。

神智学では肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、ブッティ、アートマ、モナドの7つにわかれるとされています。
エーテル体は肉体とほぼ同じもので、エーテル体の死が人間の死であると、
確かその昔神智学の本で読んだような・・・(うる覚えですがw)
さきほどの体外を離脱するのがこのアストラル体です。
さらにそれを覆うようにメンタル体があり、
コーザル体より上はハイアーセルフ、神の領域とされています。

ここでいうモナドについてはドイツの哲学者であるライプニッツのモナド論からきています。
宇宙はこのモナドなる「自然界を構成する最小単位」によって、これに心的要素も含み、
最終的には神によって全体的にあらかじめ調整されてできたものだという説を「予定調和」と呼び、
これは神智学のオーラの層の考えの基礎にもなりました。

このライプニッツのモナド論はグノーシスや新プラトン主義とともに
現代オカルティズムの世界に大きな影響を与えた考え方でもあり、
これに過去と現在、未来という時間軸といった「因果論」を取り入れたものが
ユングのシンクロニシティ論の発想の原型だったといわれています。

わたしが垣間見た世界というのは、この時間の軸が一切ありませんでした。
そして神智学をベースとしてみれば
下位三体のものではあきらかになく、コーザルよりもさらに上の世界でした。
体を抜け出た先の光のカーテンの向こうの世界というのは
まったくもって別の次元とでもいうべき世界だったのです。
しかし、どんなにあのときの感覚を思い出して研究したところで、
結局次にこの世界を感じるのは、わたしがこの世を去るときなのかもしれません。
あれはアストラルレベルの次元ではなく、本当に不思議な感覚で今でも忘れられません。



そもそも形あるものは変化します。
その変化もまた、美であると
日本人の古くからの発想にあります。
その発想は形あるものだけを見ているわけでなくて、
もっと深く、遠い、無限の世界をみているようにも感じます。

わたしは、形あるものの有限の中にあるからこそ、
すべては美しいし、いとおしい、
と思っています。

そしてそれを感じるものこそ情緒、なのではないかと。
それは極めて三次元的な様式美なのではないかと思います。

禅文化についてもっと詳しく知りたいという人には鈴木大拙の著書がオススメです。

どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる(妙)が存する。
これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点である。
真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。
 妙はときとして日本文学において(幽玄)と呼ばれる。
ある批評家は、すべての偉大な芸術作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは変化の世界における永遠なる事物の瞥見、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。
すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしりでて、妙と幽玄とを呼吸しつつ各種部門の芸術に自己を表現するのである~鈴木大拙/禅と日本文化



有限、つまり限りある世界は「幽玄」の世界とも通じるってわたしは思うんです。
つまり限りある「カタチあるもの」の世界は常に変化し続けるものだと思うし
その変化の中にあってこそ「刹那の中の永遠の美」のような世界を垣間見ます。

そこにあるのは時空を超えた超越的な空間美すら感じられる。
たとえばサクラの季節とか、刹那の美しさがある。

かつて小野小町は

”花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに”

と詠い、桜の花を見て自分の美しさが変わっていくことをむなしく感じたようですが
ものの姿には「艶」と「あはれ」があると紀貫之はいっています。

紅葉には「もののあはれ」を感じさせると思いませんか?
この「あはれ」の心は中世には「幽玄」へと変わりましたが
昔の人は歌を歌う前に、まず「心」があるといってたのかなと思えます。

__刹那の中に見える永遠の美

これはわたしの中にある美学です。
宇宙の営みの中でわたしたちの一生というのは、星の瞬きにもすぎない。
でも一呼吸ごとにそれぞれの生命の息吹というものは必ずあって、
それらひとつひとつがすべての存在を作り上げている。
だからこそ、


すべての存在に、感謝____

そして、今、このときを生きよ。


と思うのです。

有限から生まれる出ずるものは、所詮有限でしかないのです。
医療も科学も未知数とはいえ、その未知数は人間が想像する範囲の未知数でしかなく
つまりは未知数という発想そのものの考え方に限界があることに気付かないといけない。

一方でそれは肉体レベルで生きてるあたしたちにとっては、有益なものでもある。
しかしこれらを過信しすぎても、単なる信仰にすぎなくなってしまう。



アガペーとは神への愛をさす言葉です。
タナトスは本能的な死への欲求です。

そしてエロスは人間同士の性愛であり、
それに対するエネルギーはリビドーとフロイトは定義しました。

リビドーの流れはいわゆるクンダリーニと同じもので
第二チャクラの創造的エネルギー。
創造的エネルギーは子孫を繁栄させるような「創造」だけでなく
何か新しく生み出す、作り出していこうとする原動力でもあります。

形あるものを作り出そうとするエネルギーがリビドーであって
形あるものを破壊しようとする欲求がタナトスだとあたしは思うんですね。

しかしタナトスの破壊欲求が本当にめざしたかったものは、
おそらくは神の愛、つまりはアガペーであったのではないかと思うのです。
それは形なき無限のもの、つまりは
永遠への本能的欲求であるのではないかとも思えるのです。

自由を求めるとき、たいてい、そこには束縛が対等してあるものです。
一方、束縛とは有限、です。

我々は束縛の中にこそあって
自由に対し憧れを抱く生き物なのです。

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最後までご覧いただきありがとうございました!
れいあ
Posted byれいあ