「ゆるし」のステージ

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はい、れいあです。

昨日、仕事帰りに、ちょっとスピリットたちともめたんですが
わたし的には、なんか裏切られたような気持ちにさせられることが何度かあったのですが
わたしの中で、それが悲しみ、怒りを通り越して
「失望感」
となっていました。

朝起きたらすごい失望感で起きていました。
なにか空虚な気持ちにもなっていて
苦しい、つらいというよりも抜け殻というのとはちょっと違うかな
なんか空洞みたいな感覚。

裏切りといえば、人間関係がまずあげられるかもしれません。
人間関係での信頼や失望感虚無感というのはすごいつらいと思います。
わたしの場合、それがスピリットのレベルで起きる感じです。
人間だと「ちょっと距離をとろう」ってことが可能ですが
目に見えない存在の場合に対しては、それができないという、
誰かとこういう感覚を共感できうる部分がほとんどないのもつらいところかも。

以前、わたしはジェラルド・ジャンポルスキーの「ゆるす ということ」の本を図書館で借りて何度か読みました。
文庫版になって、買おうと思ってなかなか買わずにいたのですが
ようやく先日買おうと思い、購入したのです。

ゆるすということ もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫) [ ジェラルド・G.ジャンポルスキ ]

ここに何度も書いているけど
わたしは小さいころから父親に虐待をうけて殴られたりしていました。
母親からもネグレクトがあったり、
自分を愛しなさい
なんてよくいうけど、愛の感覚なんてわからないままずっと生きてきました。

そしてヒーリングやスピリチュアルな成長を経て、
何度かこれも書いているけど
今年になって父親に対する慈悲の気持ちが自然と出てくるようになってきました。

先週、父親は家の庭に出るウッドデッキの補修をひとりで行っていました。
わたしは今日休みでしたが
いつもこの時間は外に行っているはずの父親が家にいました。

「ウッドデッキ完成したんだね」

というと

「でもお母さんは何もいわないし手伝いもしない」

と母親に対する不平不満を話し始めました。

わたしは

「明日、近くの温泉に行こうかと思っててさー」

と話を切り替えました。

すると父親は、以前わたしがあげたそこの招待券が1枚余っていることを伝えてきたのですが

「有効期限が・・・ん、、今日だ」

という今日までが有効期限ということに気づき、しかし父親は

「もったいないね。でも仕方ないよな。もうお昼だし」

といっていました。
わたしの心の中では

(わたしが今日行く?うーん、でも今日の気分じゃないんだよね・・・
それより、そんなふうに行かないなら、もう誕生日のプレゼントに温泉の招待券は、もったいないしあげるのやめようかな)

なんて思いめぐらせていました。

しかし父親がその5分後くらいにいきなり

「やっぱ行く。今日、温泉行くわ」

そういって準備をはじめました。

今日は先ほども書いたように通常ならこの時間帯に家にはいないのです。
でも偶然いて、お昼ご飯の時間の直前でした。
父親はその温泉でお風呂のあとにごはんを食べて飲んで帰るのが好きだったのです。

「ウッドデッキ、何日もかけて一人でがんばって作ったんだからさ、身体を休めろって意味じゃない?
のんびりしておいしいもんでも食べてきなよ。
今日は天気もよくて良かったね」

と父親にいうと、出かけていきました。

父親が出かけた後、完成したウッドデッキを見て
お母さんのために作ったんだもんな。
ありがとうの一言もなけりゃ、やってられない気持ちになっちゃうよな・・・
お父さんがリラックスできますように・・・
そんなふうに気付けばふと祈ってました。

わたしはこの最近とくに、父親に対して

「自分の人生、好きに生きてほしい」

という気持ちが強くなってきました。
これまで父親には制限されている、とか心の病のときは監視されている、とまで思っていた相手なのにもかかわらず、です。
わたしのやりたいことをやらせてくれなかったことも多かった父親に対して、こう思っている自分に驚いています。

でもそれは、わたしがわたしの本当にやりたいことを仕事にしたり、
好きに旅行に行くなどするようになったからこそ、です。
わたしは自分が好きなこと、やりたいことを選択して生きてなければ
そう思えなかったかもしれません。

父親は、これまで家族のため、会社のために働いてきて定年して介護をするようになり、
そして介護で腰痛が激しくなって・・・
もっとやりたいことをやってほしいと強く思うようになりました。

いまのわたしは

「人生、自分をつかいこなしてなんぼだよなー」

って思うんだよね。

だけど父親はそんな気力もないようなかんじでいたのです。
旅行に母親といっても歩きつかれ、結局また腰が痛くなり・・・
なんてのを見ていると、なんともやるせなくてね。。。

これまでひどいことをされた

という被害者意識が強かったわたしだったのですが
意識が変わってきました。

ゆるしたくない

とは思っていませんでした。
でも

許そう

と思っても、どこか許せない気持ちが出てきてしまい
わたしは許したくても許せないという気持ちが強く残っていました。

でも今生では、きっとゆるすことはテーマにはのぼらないだろう

とまで思っていたんです。

ゆるすことをあきらめていました。
だって、ゆるすことって、エネルギーをたくさん使うものだって思っていたんですもの、ずっと。
気合いいれないとだめなんじゃないってふうにね。
でも、実際は違うんです。
自分を緩めるというか、リラックスさせるというか、
むしろゆるすぞー!って気合(?)はいれないというか。
ゆるすことって、自分への癒しのようなものだなって思ったんですね。
そんなこんながようやくわかってきて、体得できてきました。

それは思いの外
スピリットたちへのわたしの気持ちがきっかけで
さきほど紹介した本を急に読みたくなって手に取り
父が温泉にいったあと読み始めました。

なんていうかこのタイミングで起きたことに父親の気持ちが変わってきた様子をみて

もしかしたらお父さん、変わってくるタイミングなのかもしれない

そういうふうに思いました。
意識の使い方で物事を見る見方が変わってくることを父親が知れば
もしかしたら腰痛もよくなるかもしれないと思っていました。

ゆるす ということ の本を再び読み進めるうちに
わたしが頭で思っていたもやもやが書いてありました。

ああ、やっぱわたしは(スピリットたちを) ゆるさない でいることで 私自身が苦しいんだ
そんな感覚があったことに気づきました。

ゆるすということは

ひどいことをされた!

というその行動そのものを容認するわけじゃないんです。
ゆるすということは自分の中にある「縛り」をほどくような作業に思えました。
だから、ゆるしは自分をリラックスさせるものだよと先ほど書いたのです。
それにより緩める感じで楽になっていくのです。

わたしの場合は、わたしの中にある「正しさ」とリンクづけされてるように感じました。

「わたしは 正しい。 だけど スピリット おまえらはダメだ!間違っている!
お前らがしっかりしないからわたしが苦しむことになる。どうしてくれんの?」

っていう気持ちでした。

なにが正しくて なにが正しくないのか。

つまりわたしはスピリットをずっと裁き続けていたのです。
そして思いました。

「神様なんていないんだよね、本当は。いたら助けてくれるもん」

って気持ちも強くあって

「神はわたしを見放した」

という気持ちみたいなのがこの数年の絶望となっていったのです。

でも状況を冷静にみていると
一見不幸だなってことなんてないんだよね。
なのに、この理不尽な感じ、いったいなんなんだろう、とも思っていた。

そしてあらためてゆるしについて取り組むことになっていきました。

裁き続けていたつもりはなかった。

この感じって、わたしは「満足いかない」ということからきてるのかなと思っていたけど

ああ、裁きと罪悪感てセット・・・!

と思えるような感覚です。

この世の中の人がみな「ゆるし」の気持ちを持つことができたら
きっと争いなんてなくなるだろうし
平和で調和のとれた世界になるかもしれない。
だけど「ゆるすこと」って愛がないとできない。

結局ゆるすことって、自分自身を縛りから解きほぐしてリラックスさせることだよな
って思うようになっていったのです。

そしたら・・・頭で脳内音楽が・・・
これはメッセージだなと思ったのですが
曲名もアーティスト名も出てこない。。。

でもここまでのぼっているということは思い出せるはず・・・
と思っていたらふと思い出せました。
それは

Julia Fordham の Happy Ever After でした。


​調べていくとこれは「人種差別」に抗議する歌らしく、ある意味、絶望感を表している歌ともいえるそうです。

Don't ask me why I'm running out of laughter
There's tears in these eyes, not happy ever after
And I thought it was plain to see
And I thought the whole world could be
And I thought we'd be happy ever after.
You could say that I'm living in a pipe dream
It's just looking back, things are never what they seem
And I hope I can safely say
And I hope most things go my way
And I hope they'll be happy ever after.
Down in Southern Africa no happy ever after
Not now, but soon forever
While they're sitting comfortably
In that white winter city
How can we be happy ever after?



私が笑顔を使い果たした理由を訊ねないで欲しい
目には涙が溢れているから
それからは幸せではないの
それははっきりしていることだと私は思っていた
全世界がそうなれると私は思っていた
私たちがその後ずっと幸せになれると私は思っていた
私が非現実的な考えを持って生きていると言ってもいいのよ
振り返ってみると
物事は決して思っていたようなものではない
私は誤りがないように言うことができるように願う
私はほとんどのことが思い通りに行くように願う
私はそれらがその後上手くいくように願う

南アフリカの人々はその後幸せではない
今は幸せではないけれどすぐに永遠に幸せになるだろう
彼らがあの“白い”“冬の”街で気楽に座っている間に
どのようにして私たちはその後幸せになることができるのだろう?
私が笑顔を使い果たした理由を訊ねないで欲しい
目には涙が溢れているからそれからは幸せではないの
それははっきりしていることだと私は思っていた
多分あなたと私だと私は思っていた
私たちがその後ずっと幸せになれると私は思っていた



アンニュイなかんじの曲なのですが
こういう歌詞の意味があったのですね。

なぜこのような曲が流れてきたのかというと
大天使ラファエルがスピリットたちに伝えたい事だったらしいのです。
ラファエルの悲しみをあらわしているんだそうです。
それはわたしはスピリットたちの詳しいことはわからないけど
わたしとしては
「ゆるし」ということが自分に対する愛であること、そしてそれが他への愛でもあることならば
多くの人々が
赦しのステップまで人生で学んでほしいなと思った
んです。

このジェラルド・ジャンポルスキー氏は医師でもあるので
許せないこと、つまり許せない過去への執着が自分をどれだけ苦しめて
それが体の痛みにもなっていること
についても書いてあります。

わたしは罪悪感って基本的にあまり持っていないと思っていたのですが
魂のレベルというか深いレベルでは結構根深くあるんですよね。

人を裁くことは よくない っていうけど、ついしちゃう。。
だけど、そういう批判や裁きへの気持ちって
すごく自分自身を苦しめているんだよね。

わたしはこの本を読み終わったときこう思っていました。

「わたしは わたしを 救ってあげたい」

わたしは わたしという存在 を 救済 してあげたいんです。

わたしという存在に対して、もっと私自身が丁寧に扱ってあげたい。
もっとわたしはわたしにやさしくしてあげたい。

愛なんてよくわからなかったけど
いまのわたしは、なんだかそう思ってる。

わたしのゆるしのステージはまだはじまったばかりです。


最後までご覧いただきありがとうございました。
光の錬金術師れいあ
Posted by光の錬金術師れいあ