れいあ

原罪と自己制限

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はい、れいあです。

先日までAbemaTVでエヴァンゲリオンがやっていたので観ていました。



わたしは90年代、テレビ東京で放映されていたときオンタイムで見ていた。
漫画の原作も読んだ。
当時はうつの真っ最中だった。
登場人物にインナーチャイルド的な癒しが必要だということ、彼らがアダルトチルドレンで機能不全家族であっとは当時わかったが
わたしもそうだったため、気づきというものはなく、自分の傷をなめるだけで終わっていた。
このときは癒しとかヒーリングがいまほど普及していなくて
わたしもそういうものとは無縁の世界にいた。
2000年代になり、映画も、テレビも再び見た。
だけど、なんとなく前よりわかった程度だった。
今回は3回目になるのだけど
面白いことに全くこれまでとは見方が変わっていた。

ご存知の方も多いけど
エヴァンゲリオンはキリスト教の創世記をモチーフにしたストーリーなので
キリスト教における、そしてわたしの中では大乗仏教についても関連させて考えていった。

その中で、様々なことをキャッチしたので
今回の記事では、それをシェアしていきたいと思う。

わたしはかつてクリスチャンスクールに通っていたし
神学や宗教論の授業をうけてきた。
毎週土曜の朝は礼拝でチャペルに通っていた。
早すぎたのかわからないけど、わたしはそこでは学ぶことがなかった。
どちらかというと牧師さんが
「これまでこういう悪いこともしてきたけど改心をし人のために生きる道を選んだ」
という内容を話されるのだけど
なんというかわたしからみたら単なる美談というか体験談のようにしか思えなかった。
そんな意味でわたしは法事の時のお坊さんの話のほうが学びとして好きだった。
一方人間は罪であるとも学校で教わってきた。
しかしわたしは何故人間が罪を持って産まれてきたのかということがわからなかった。
旧約聖書についてはあまり学校では学ばなかったためよくわからなかったし
学校を卒業してからは特に考えることもなかった。

来月はクリスマスだけど、大天使ガブリエルからのマリアへの受胎告知があり、
「神の子イエス」としてキリストはお産まれになったとされている。

わたしは先月モーゼの十戒の映画のDVDをみて、
キリスト教についてユダヤ教について、
また、大乗仏教についての書物を読み、
いま草稿中だけど哲学書を読んでいた。
それらのつながり(いわゆる真理)を持ちそうでいて、よくわからずにいた。

「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を見た。
劇中最後に流れる
Komm, süsser Tod 甘き死よ、来たれ
の曲の歌詞の意味を知る。

Komm, susser Tod ~甘き死よ 来たれ~ (Evangelion, エヴァンゲリオン)


庵野さんの訳詞はエヴァのストーリーのように

「人を傷つけたくないし自分を傷つけたくないから
人を好きになりたくない
こころを触れ合えばあの人は傷つく
だから私は壊れて無に帰るしかない
だから無に帰ろう」

という、まぁ、要約すると実に消極的な?歌詞になっているんだけど
わたしはそうは受け取らなかった。

わたしはキリストが罪を背負い十字架にかけられたときの気持ちは
もしかしたらこういうかんじだったのかもしれないなと思った。
もちろん人間なんて好きになってはいけないという部分ではなくて
十字架を背負うということは人類の罪を背負って無に返るという意味なのだとしたら
それこそが「神の子」として生まれてきた所以なのだろうと思った。

つまり「神の子」とは、神の生き写しという存在として人間を再現させたのであれば
すべての人間の原罪の罪をぬぐう役割(神の生贄)として自らを差し出す役割をもって生まれてきたのだろう、という意味合いだ。

旧約聖書では生贄になっていたのは羊だったとしたら
神は生贄を本当に必要としているのか?
と考えるのであれば、
神はそのような生贄を必要としていなかっただろうとわたしならとらえる。
(とはいえ、わたし個人はキリストはヒーラーとして存在していたけど、十字架にかけられたり処刑や罪人扱いはされてなかったと思ってる)

実際日本でも神の生贄としてとらえていた時期もあったわけだしアステカ文明の中でも生贄文化があった。
アステカでは「生贄を捧げなければ太陽が消滅する」と信じられてきたので大量の生贄が必要であった。
今でこそ生贄は残酷なことであるという認識をもたれているが
それは社会の成熟と深く関係するであろうとわたしは思う。
こんなふうに潜在意識の深い部分、集合的無意識のところを魂は過去生のカルマとして記憶している部分もある。

ここで上記の歌詞にもある無の概念についてだけど、
仏教では、ブッダが修行をし、さとりをひらくことで
この世のすべては本当はなにもない、無である
とした。
つまり、

人間はなにかに意味を見出すものだ

ということ。
逆説的に考えれば、

見えないものを見える(現実化する)ようにする力を持っている

とも捉えることができるし、
だから、それは夢や希望を叶える力も持っているけれど、
体験を、苦しみとしてしか捉えられないのであれば
それは煩悩からの脱却を目指す、
真実の自分を見出し、流れに乗るためのきっかけにもなりうるともいえる。

物質に対する捉え方は量子物理学的な思考でもあり、
つきつめていけば、
ビックバンや相対性理論についてまでいきついてしまう。

仏教では執着を「煩悩」としてとらえている。
煩悩は本来の自由である真実の自己から離れたものであり
いわば煩悩は「自己制限」であるとわたしはとらえている。
人の苦しみの原因は煩悩にあるから修行で煩悩を取り除くとしているのが仏教だけど
いわば煩悩が本来あるべき自分から遠ざけているというわけだ。
煩悩を消し去ってしまえば楽になるかもしれないけど
わたしたちは人間である以上、自分であるという意識は持ち続けるわけであって、
煩悩をゼロにして生きる聖者のような状態を仏門に入っていない人達が目指すのは違うとわたしは捉えている。

ゆえにわたしがセッションで目指しているのは
いわゆる煩悩か、真実の自分の姿かをまず区別をつけるため自らの本質に向き合い、
そして、そんな自分を受け入れ、
いわゆる煩悩をいかに流して現実を生きていくか、というところ。
後で触れるけど、この現実の捉え方、というものももちろんある。

涅槃寂静という言葉があって、これは
諸行無常・諸法無我のいきつく先にあるものというか、
無常、無我に気づいた生活をしていけば
心が波立つことがあっても、それに執着せず、
心が平和で過ごしていけるようになる状態をいい、
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静とセットで三宝印という。

多くの宗教的概念は非常に観念的だ。
人間は観念という「制限」にとらわれ常に制限の中で無意識にコントロールを求める生き物だからだろう。
そこに「自己存在」としての「自由」を考えるのであれば
人間は自ら生まれながらにして潜在的欲求の中に制限というものがあるのかもしれない。

人間は愚かだから(とはわたしが思うことなのだけど)罪をおかす。
しかし先ほども少し書いたように、それ以前に原罪という、キリスト教の概念がある。
つまり「人間は人間たることでもって すでに罪である」という概念だ。
しかし神は本当にそのような罪を与えるのであろうか。
そのような罪を与えられた中で無償の愛など本当にわかるのだろうか。
だからこその人間愛、隣人愛を唱えているのだろうか。

これについてはすでに様々な解釈があるけれど
無償の愛がいわゆる神の愛である「アガペー」であるし、
「フィリア」は友情などを示し、男女の愛は「エロス」とされる。

これらの「愛」は、たとえばエロスだから低次元の愛だ、汚らわしいというものではない。
わたしたちはこれらの愛を体験しながら、より高い次元の愛へと徐々に目覚めていくのだろうと思う。
このより次元の高い愛こそがいわゆる5次元以上の愛、高次元の愛とか神の愛とかそういうふうにいわれるもの。
人間は高次元の愛だけあればいいわけではなく、
好きな人の愛があればいいわけでもない、
すべてにおいてバランスがとれていて、すべてが大切なのだ。

わたしがキリスト教的観点から解釈するのであれば
このような自己制限を人間が求めていることが潜在的欲求であるのであれば
それは神に対しての罪ともいえるのではないかと思う。
しかし実際には教会側が規則や観念を植え付け、宗教裁判などを含め
人間の罪を増長させているようにも思えてならない。
そんな意味でも人間は愚かだなと思う。

またフロイト的な見方をするとタナトスは死への欲求を意味するが
わたしがいま思うのは死への欲求とは
ナルシシズムをともなった希死念慮などではなく
本能的なレベルで
「エゴ(自我)の死」を通して、本来の自分の「超自我」のあるべきところに向かおうとするエネルギーなのではないかと思っている。
わかりやすくいえば「本来の自分にたちかえりたい欲求」をいうのではないかと。
しかしエゴの死は物理的な死の体験に基づくものではない。
その人が本来もっているスピリットの部分(ハイヤーセルフ)からの「本質」に立ち返らせるためのメッセージにも思う。

Thanatos If I Can't Be Yours エヴァンゲリオン破.ver


つまりわたしたちは「わたしである」という意識をもった時点ですでにそれは制限にも通じる。
それが大乗仏教における「無の境地」への到達でもあるのだろうなと。
しかしわたしがわたしであるために必要なものは
「神の愛」だけでは成り立つことができないのも事実だ。

わたしたちは、自己の本質に気づき、
その自己の本質とは愛であることを学び、
そして、すべてを学び終えたのち、
再び愛の世界へと帰っていく。


仏教における無という捉え方は
わたしたちが自ら持っている煩悩や
人間の集合意識でもある原罪的な観念、
これらに気づかせ、手放していく
いわば生き方のコツのようにわたしは思う。

本質というものは、苦しみの中から学んでいくことではなく
自分はどんな時に、どんなことで苦しみと感じるのだろうか、
というような自分の生きグセを知り、
そこを見つめていくことで、手放して解放していくと
自己の本質にたどりつき、
自分の本来の愛を体験したとき
神の愛というものを、実感するのではないだろうか。

わたしたちが愛の経験をし、学ぶのは、多くの場合が
自分への愛の不足であるとわたしは思う。

愛を経験しなければ、愛を学んでいくことは難しいように
神の愛がどのようなものかを実感していくには
自分への愛が必要なのだ。
だけど、自分への愛が、どんなものなのかを経験するためには
他者の愛が必要なのだともわたしは思う。
このような他者とのコミュニケーションを通じて人間は愛を学び、成長していくからだ。

他者の愛がほしいと思うとき、
ほとんどの場合が、自分への愛が不足しているものだと思う。
だからこそ、わたしたちは、ひとりだけでは成り立つことが難しく
他者からの感情を通して学んでいくようになっている。

人間の世界は、こんなふうに、様々な愛に気づいていくことにより
豊かさがもたらされていくのだろうと思う。

わたしたちが作り出している現実世界は
たとえ悲惨なものにいまは映っていたとしても
自分の中にある現実を捉えている概念やエゴを打ち砕いていけば
愛をキャッチできるアンテナを増やせるし、
悲しくつらい現実は幻想にすぎないとやがて気づくだろう。
美しい世界を現実にしていくには
なにが幻想で、なにが真実なのか、
自分の中にある真実を探求していくと
自ずと真理がわかるようになっているのだ。


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れいあ
Posted byれいあ