in 癒しとスピリチュアル

恥の意識と罪悪感について

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はい、れいあです。

先日母親に動物園に私が行くことについて
「恥ずかしい」
と言われた。

もちろん、わたしもいい大人なので好きなようにさせてもらうつもりだけど。
だけどこれに付随する感情とは向き合っておきたかった。
今日はそんなわたしが向き合った感情について思うところを書いていきたいと思う。

どういう意味で母親がそう言ったのかは聞かなかったけど、
わたしが小さい頃から母親は世間体を異常に気にする人で、世間体からみて、
「大の大人が一人で動物園に行く」ということに関して、恥ずかしいと思ったのだろうと。
しかしここで、わたし自身がすでに「大の大人が一人で動物園に行くのは恥ずかしい」という発想を持っているからこそ
母がこう感じているだろうということが察しが付くので、
これは母親の感情であったことに今回気づかされたわけだ。
母親が何故そうなったかはさておき、わたしの中にある感情をリリースしていきたいので
わたしは引き続きこの感情を観察していくことにした。

わたしが近年動物園に行くきっかけは、やはりレッサーパンダのレン君に対する好きな気持ちだった。
だけど「大人が動物園に一人で行くことは恥ずかしいことだ」という思い込みが強くあったのはこのわたしだ。
しかしこれがもともとは母親のものであるということが今回明確になったわけだ。
これはいわゆる「境界線」の問題でもある。
母親がそう思っているだけであって、わたしの気持ちとは違うものだと線引きする必要があるのだ。
だからこそ不快感を覚えた部分もあるのだろう。
これをしっかり母親の感情とわたしの感情、という感じで識別していくことが大切だ。
これは自分がどんな感情を持ち、自分はどんな感覚があり、どんな考えなのか、、ということがわからないと、他人のそれと一緒くたになってしまう。
結果、自分の感情と誰かの感情の境界線があいまいになるケースが多い。
これは特に親子や夫婦など、近い関係にあるほど、自他の境界線があやふやになりがちだ。
これに相手の信じ込みなどが加わり、自分の感情と共に自分の信じ込みだと思ってしまうケースも少なくない。
だからこそ自分は何者か、どうありたいのかを明確に知っておく必要があるのだ。

数年前わたしは動物園に行くことに対して抵抗がかなりあった。
だからはじめてレン君に会いに動物園に、福岡まで行くというとき
ホテル予約もしてたけど母親には一週間前まで怖くて言えなかったのだ。
そう。
「恥」の意識は「罪悪感」を生み出すだけでなく、「恐れ」の意識とも関係してくる。

福岡でスパとかに行って、福岡ではどこに行かれたんですか?ときかれ、
「動物園」と正直に答えられない、と母親に言ったとき
「当り前よ!恥ずかしい」
っていわれたんですよね。
ちゃんと答えられないのはわたしに恥の意識があるから。
素直に伝えなくても、伝えても、別にそのくらいいいじゃないって普通だったらスルーするところだと思うけど
私の場合、いろいろなものが絡んでネガティブな気持ちがあるため
これをなんとかクリアにしたいんだよね。

動物さんたち、ごめんね。
動物に会いに行くことは恥ずかしいことなんかじゃないのに。
レン君、恥ずかしいなんて思ったりして、ごめんね。
そんな動物たちに対するうしろめたさもある。

先日、アロマの講座があり、ランチから戻り、雑談をしていたとき、
わたしが福岡に明日から行くと話したとき、何しに行くのかの話になり、動物園と答えていた。
このとき自分が止まらなくなっちゃってレッサーパンダに関するウンチクを気づけばずっと話してたわ(笑)
でもこれまでは、恥の意識があったから、動物園なんていったらおかしく思われてしまうと感じてたから人前ではあまりいえなかったんですね。
そんなふうにいえないんだよね、わたし、好きなこと、ものを。
音楽とか美術鑑賞とかさ、確かに好きだけど、これを言えば理解されるだろうとか、やっぱどこかで世間体を考えているのかもしれない。

そんな自分の心の動きをずっと見つめていくと、以前も自分で掘り起こした感情にあたった。

「わたしは恥ずかしい存在」

そう、わたしはずっと感じて生きてきたことをふと思い出した。
それが母親による刷り込みだったということを、ようやく理解してきたところにある。

はじめは、悲しかった。
もちろん怒りの感情もあった。
なぜわたしが怒りを感じていたかというと、
好きなもの、ことに対して侮辱されたという気持ちがそこにあるからだ。
好きなことに対しても制限されてたよなということも思い出した。
でもそこまで大きく心を支配はいまはしていない。

こんなふうに、わたしは、特にこの仕事をはじめてから、
自分の感情の推移を、ただ見つめることが増えた。
出てきた感情に対して決してジャッジは加えない。

母親は、テレビで動物モノを見るのが好きな人だ。
だけど、わたしが小さい頃から母親は
動物は臭いから嫌い
と言う人で、それは今でも変わらない。
だからわたしは親に動物園に連れて行ってもらった記憶はなくて、
おじいちゃんが動物園に連れていってくれたんだよね。

では
「恥ずかしい」
って。
どうなんだ?

考えてみてほしい。
そもそも恥ずかしいという感情、感覚は自分を否定する言葉だ。
自己批判になることだって往々にしてありえる。
さらに深い恥の意識は罪悪感にもどこか似ている。

そして、恥ずかしい、というのは、
他者の存在があることで、はじめて成り立つ概念でもある。
いわゆるアダムとイブは最初は裸体だった。
しかし、智恵の実を食べてから、恥ずかしさが芽生えた。
恥の意識は、人間として他者、特に男性と女性のような性の違いもあるし、
これは動物との違いでもある。(文明とも関係するかもしれないけれど)
動物は本能で生きている。
だからいまの感情で本能的な行動をとる。
これはいわゆる「現世主義」の人間にも当てはまるととらえることができる。
「いま ここ」に生きるという意味は、「今が楽しければなにしたっていいや」の意味ではない。
「ありのままに生きる」という意味も、自分本位にエゴで生きるという意味ではない。

これらスピリットの視点と本能での視点との違いではまったく見えている世界が違うものだ。
これらをはき違えている人は事実多いし、
わたしもかつて20代のときはき違えていた人の一人でもあるのだけれど。

恥の意識と罪悪感とは深いかかわりがある。
以前にも書いたけど、西洋のキリスト教圏内では「原罪」というものがあり、
人間は生まれながらにして罪があるという考えがベースになっている。
これもやはりアダムとイブのエデンの園について、楽園追放と関係してくる。
キリスト教では罪悪感が人間の深いところにあるので
懺悔というものにつながっていくのだけど
「人間は不浄なものだ」
という発想がベースにあるわけだ。

このような生きる上での苦しみをキリスト教では原罪という形をとって存在していて、
一方仏教では生きることそのものを苦しみとする。
基本的にどの宗教も「生きることは苦しみ」という視点で語られています。
仏教の場合は「苦しみ」を理解することが重要であると説いている。
苦しみを理解することでよりよく生きていくということになる。
この苦しみには輪廻転生を含むわけですが、これを脱却することで「悟り」を開くわけですね。



日本人は特に村社会であったために、その名残としてか世間体をやたらと気にする風潮にある。
世間体を気にし、恥ずかしいと感じたりするわけだ。

「日本は恥の文化」

という言葉を聞いたことがあるとは思うけど、実はこの言葉、日本人が作った言葉ではなかったりする。
アメリカの人類文化学者であるルース・フルトン・ベネディクトの「菊と刀」という本の中で日本文化を表した言葉だ。

菊と刀 [ ルース・フルトン・ベネディクト ]

日本人は「周りからどう思われるか」といういわゆる世間体を気にして行動することが多い。
いわゆる体裁を重んじるというわけだ。
この本では「アメリカは罪の文化」としている。

恥の意識は、すべてが悪いわけではなく、いい面としては人に対する思いやりや気配りということができる面も持つ。
これは、たとえば電車待ちの列を正しく並ぶこともそうだし、
災害が起きたとき、大きな乱闘騒ぎがおきないことで日本人は東日本大震災のときに世界から驚かれたというニュースを目にした人も多いかもしれない。
一方で世間体を気にしすぎる傾向にある人は、いわゆる他人軸になりやすくもあります。
他人を意識してしまうことがかつての村社会の中で根付いてきたためなのでしょうか。

これは結局自分をうまく表現できないとか、
自分は本当はやりたいことがあっても他人の目を気にしすぎてできない、など
個人主義や自由な時代の風潮が急速に入ってきたためだとわたしは思うのですが、
社会の成熟という面から見ると日本人は戦後、自尊心が妙な形で育ってきている気もします。
例えば電車の中で化粧をすることも
「誰にも迷惑かけていない」と本人はいいますが
やはりこれを不快に思う人も少なくないはず。
世間体は気にしていても、まわりの目は気にしない、などね。
恥がなくなってきているともとれますが「不快に思う人」がいるかどうかという気配りだと思うし
そこまで気を配れなくなってしまう人も出てきてるということかもしれません。
気を配るというのは、「気」=エネルギーというものを、人付き合いの中から
口にはあらわしにくい、また、意識を普段しないようなエネルギー的部分でもありますので
日本人は繊細ではありますが、他人に対する気遣いができる民族だと思うので
世間体とかそういうんじゃなしに、いい部分を磨いていくことが大切なんですけどね。



話を戻します。

わたしはかつて、引きこもりの時代がありました。
パニック障害がきっかけとなり、外に出ることは、近所ですら怖くなってしまっていたのです。
しかし母親は、わたしを無理やり外に出そうとはしませんでした。
だけど、なんか気分よくて、外に出たいと思い、庭を歩いていたら、
母親に「みっともないから部屋から外に出るな」といわれたんだよね。

これってどういうことかこれまで考えてこなかったけど母親のせいにするわけじゃないけど、
わたしは気づけばパニック障害からの引きこもり以降「恥の意識」を特に感じるようになっていきました。
わたしには

「生きてることが恥ずかしい」

「生まれてきたことが恥ずかしい」

という気持ちが深くあって
今でもそのあたりは癒されてないのね。(時期が来たらもっと取り組むのだと思うけどね)

初めのほうでも書いたけど恥の感覚って、
自分を責めたり、否定する感覚でもあって、罪悪感にもつながっているんですね。
つまり、よく自信がないとかいうけど、わたしの場合、
自己批判やら自己否定となり自分を傷つけていることはわかっていたけど
罪悪感になっていったことにも気づいていたけど、
その間を埋める「点」の部分がなにか。
それが「恥の意識」だったわけです。
単純に書けば

自己否定・自己批判→(恥の意識)→罪悪感

というかんじ。

セッションでもそうだけど、入り口と、深いところの原因がわかっても、
それを結ぶ点が何かみつからなければ

「何故自分は、こういう思考で、この感情や感覚が深いところにあるのに到達するのか」

ということがつかみにくいんですね。
だから、その間にある点が何なのかをみつけ出し、
癒されていない自分はどのあたりが、なぜ癒されないのかということにもっと気づいていってあげるプロセスの中で
たくさんの学びがあるんだと思うのです。
そこに気づいていき、たとえばエッセンスをとるときくわけで、焦点がぼやけているときくものもききにくい。
いきなり罪悪感のエッセンスをとってもきかないだろうし、
かといって自己否定のエッセンスも、とったとして、ぼやけてしまうかもしれない。
だから今癒すべきタイミングかどうか、その準備ができているのかどうかは大切です。
いまいちエッセンスがきかないなってときは、たいてい、癒されポイントへのフォーカスがいまいちできてなかったり、
他にもさらに、気づきが必要なケースもよくあります。

わたしはパニック障害から引きこもりになり、会社に行けなくなり、社会的に失望してしまっただけでなく、
自宅では、そんな感じだったし、プライベートもめちゃくちゃだったから人生に失望していたんだよね。
そんなときの、母親の
「恥ずかしいから部屋にいろ!外へは出るな!」
という言葉は、わたしの中に潜在的にあった

「生きててごめんなさい」

「生まれてきてごめんなさい」

そんな気持ちがどんどん強くなり自傷行為につながっていった。

「わたしは生きてちゃだめなんだ」

という気持ち。

社会的にも、失望していたので

「わたしはなんの役にもたてない人間だ」

と自分を責めたりしていたのです。

でもわたしは、自らが持つ恥の意識と罪悪感がセットになっていると気付かされたのはわりと最近のことなんです。


こんなふうに自分の感情を見つめて思うことを書いていきましたが
私たちの中には、こういった「恥の意識」といった民族的なカルマもかなり根強くあるわけで、
このようなカルマなどは別に解消しなくてもよいのですが
困っていたら、苦しみをどうやって解放していけばいいのか、だと思うのです。

もっといえば、人間は歴史的に宗教や文化といったカルマもかなりあったりします。
こういう潜在的なものは「集合意識」でのものなので、個人的なものとは別のところに問題があるのです。
そのあたりはしっかり区別しておくことが大切です。

今回はそんな意味で、わたし個人の「恥」の意識のルーツが母親の持つ意識であることがわかったわけですが
ここには日本人の持つ恥の意識や世間体について、
そしてキリスト教に至るまで書いたのですが
そのあたりの違いもわかっていただければ幸いです。

最後までご覧いただきありがとうございました。
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