花魔女★れいあ

花魔女★れいあ

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はい、れいあです。

1月も早くも中旬となりました。
先日の覚醒ワークシリーズの最終章というかオマケになるのですが
始まる前に早起きして神社とお寺さんに参拝したことにまつわる回顧録となります。

今回講習前に品川神社と虚空菩薩のある養願寺、品川成田山一心寺に初もうでに行きました。
もちろん御朱印もいただきました。

品川神社


御朱印

品川神社には一粒万倍の泉があって、そこでお金を洗うとお金持ちに(現生利益的w)
おうちにあった万札いっぱい(?)持って行って洗いました(笑)

ここは虚空菩薩の養願寺。


、、、の前にあるスナック


ご朱印(左は下記の一心寺)


成田山一心寺


この3社はいずれも京浜急行の新馬場~北品川の間にある寺社なんですが
旧東海道にある、いわゆる宿場町として栄えたところになります。
その近くに数年前よりお世話になっているアルカディアさんがあるのです。

前にも書いたけどね。
祖母がはじめて入院した(2006年)のは、実はここの北品川にある病院だったんです。
祖母が救急車で運ばれたとき、わたしは必死でした。。

もう10年以上前になるんですね。
忘れてしまうことはないだろうけど、
わたしの人生にとって重要なことであり転機でもあったので
記録の意味でも当時のことを一度ここで書いておきたいなと思いました。



2006年7月の中旬すぎのこと。
朝8時すぎくらいでした。
わたしは祖母と一緒に品川に住んでいました。

この日わたしはまだ二階で寝ていたんです。
そんなとき、ドーンと大きな音があって、祖母の悲鳴が聞こえました。
びっくりしてその声のところに行くと、廊下で祖母が倒れていたんです。
物干し(ベランダというより物干し・二階)にあがろうとして、階段をふみはずしてしまったようでした。
とにかく痛いとしか言えなかったのだけど、救急車は呼ばないでというんです。
だけどわたしの力じゃ立ち上がらさせることもできず、
おとなりのおじさんに手伝ってもらおうと、朝からお隣のおじさんを起こして来てもらったの。
おじさんは以前自衛隊にもいたような人で大きかったんだけど
それでも祖母を立ち上がらせるのは無理だった、というか、
祖母に「おばさん、お孫さんのいうこときいてやって」といって
わたしに「俺はおばあちゃんについてるからすぐに救急車呼んで!」と伝えてきた。
わたしは嫌な予感しかなかった。

わたしが以前この品川の家で緊急事態で救急車を呼んだのは
わたしが20代のとき、叔父がすい臓がんで一時帰宅をお正月にし、
1月4日の早朝、おじいちゃんがあまり歩けないのに二階で寝ていた叔父の様子が変だとし、どうしたらよいか戸惑っていた。
祖母は叔父のことをずっとさすっていた。
わたしは祖父母に対し
「救急車よばなくちゃダメだよ」といって呼んだのを今でも覚えている。
わたしはこのとき神奈川の実家から会社に通っていたけど、
お正月ということもあって、たまたま祖父母のところに、叔父も気になっていたので泊まっていたんだ。
そして叔父は即入院し数日後帰らぬ人となった。
叔父のことがあったとき祖母はわたしに
「救急車は音をならさないようにと伝えてほしい」
といってきたのでそれを伝えたんだよね。
それを瞬間的にいろいろを思い出してしまったので反射的に
「サイレンは鳴らさずにきてください」
と伝えていた。
わたしが当時祖母と住んでた品川の家は、生まれたところでもあったんだけど
とにかく車も通れないような狭い路地の中にあるような家だったので
救急車なんかがきたらすぐに噂になってしまうのを祖母はすごく嫌がった。
それこそ夏は玄関の扉をあけっぱなしにして買い物が可能っていうくらいに
近所とつきあいは結構あったんだけど
その分、すぐに誰かの家でなにがあったという情報も早くて
神奈川で隣の家とのつきあいもあまりないような環境で中高時代を育ったわたしも、そういうのがちょっと厄介だなと感じたことがあった。
何かあったら近所づきあいは頼もしいんだけどね。

祖母がはじめて入院した当時、お隣のおじさんに助けてもらった。
あいにくわたしが介護を初めて神奈川に引っ越した翌年、おじさんは亡くなってしまったそうなんだけど。。

祖母が倒れたとき、お隣のおじさんは、たぶん骨折して手術になるだろうから手術がうまいところを救急車できいてといってきたんだ。
で、救急車がきたとき、隊員さんたちが数人で祖母をかついでいった。
相当祖母には抵抗された。
でもそうするしかなかったんだよね。。
祖母がいないところで、救急隊員の方にレントゲンをとって骨折だったとしたら手術の可能性があるので
手術がうまいところはありますか?ときいて対応したんだ。
わたしはすごくパニックに陥りやすいくせに、緊急事態ってかえって冷静に対処できてしまったりする。
やっぱりそれ以前にも経験を身内で積んできたからにすぎないんだろうけどね。

そして北品川にある救急病院に祖母は担ぎ込まれ、すぐにレントゲンをとることになった。
レントゲン室でも祖母がすごく抵抗したため、わたしは祖母をなだめたり、いろいろと対応していた。
しばらくし診察室へとよばれた。
祖母は担架でないと移動ができないためストレッチャーに乗せられたまま待っていた。
そこで大たい骨の骨折で緊急入院、手術が必要であるとされた。
すぐに入院の手続きをしてくださいといわれ、わたしは手続きし、祖母の身の回りのものを家から持ってきたりしていた。

入院、手術が決まり、両親に連絡するタイミングとなった。
しかし両親は東北に旅行中だった。
しかも電話が圏外でつながらなかった。
ようやくつながり、その日のうちに祖母の病室に両親は車できた。
あのときわたしは30代半ばだった。
主治医が決まり祖母の手術のことで説明をうけ、
高齢なので手術しても、万が一のことがある、合併症のこと、
手術はしなくてもよいが歩けることはまずないこと、
手術をしてもリハビリしても介護は必須であること、
車椅子はとれる確率はなさそうであること、
様々なことをわたしも質問し、手術の承諾のサインをした。
究極の選択みたいな気持ちだった。

祖母の最期のときも、祖母が最初に入院したときも、
両親は旅行に行っていた。
悪い予感をシンクロさせてしまったり、悪いほうにばかり考えてしまう嫌な嫌なくせなんだけど
祖母が神奈川のとある大学病院に入院時、院内感染によりインフルエンザにかかった。
そのとき両親が旅行に行くと言ってきたので
「ヤバイ」って思ったんだけど、
でもわたしはそれを口には出すことはできなかった。
口に出してしまうと現実化してしまう気がして怖かったから。
でも結局翌日祖母は危篤になり、連絡するにも通じず、両親はまだ旅行の現地にいた。
パターンがなんか祖母の初入院と一緒だなと感じてたので、やっぱり・・・ってふうになってしまった。
わたしのこういうとこ、当時、本当に嫌で仕方なかったよ。

2006年の真夏。
わたしは病院と自宅を往復する日々が続いていた。
一日に何回も、食事の時間にあわせて病院に行っていた。

そんなとき、病院の近所にヒーリングサロンとかないかなって探したんだよね。
これまでヒーリングサロンなんて行ったことなかったし、セッションも受けたことなかったのに。
なんか探したんだ。
このときわたしはバッチフラワーについて38種類すべてをみんな使い終え、
ほかのメーカーのものも少しずつとりはじめてきたような時期だった。

当時ヒーリングに対してわたしは誰かにしてあげたいという発想はまったくなかった。
とにかく自分がよくなりたいという気持ちが強かった。
でも、わたしは生まれてはじめて「誰か」にエッセンスを選ぼうと思ったのが、祖母に対してだった。
そんなわけで、わたしは祖母が入院していたとき、病室で祖母にフラワーエッセンスを飲ませたりしていた。
あとアロマでリフレもどきみたいなことをしていた。
車いすになったこともあって、足腰冷えるだろうと思ってね。

わたしは祖母とお話しをし、ふさわしいエッセンスであろうものを選び、
どんなエッセンスかを祖母に説明し、飲ませていたんだ。
そうするうちに手術の日が近づいた。
わたしはレスキューエッセンスをそして
病院の天井ばかり見てしまってぼーっとする時間が長いのでクレマチスなども飲んでもらった。
そんなこんなで病院の近くにヒーリングサロンとかないかなってネットで探してたんだ。
それがいまわたしがワークを受けているアルカディアさんだった。
祖母が存命中には、わたしはまだお世話になってなかったんだけど
というか、まさか、わたしが神奈川に引っ越してきてからお世話になるとは。

ちなみに北品川に祖母は2回緊急入院している。
一回目は左足の大腿骨頚部骨折、二回目はその2年後に右足の大腿骨頚部骨折をし、それぞれ手術をした。
二回目の手術のときはホメオパシーを使いたてだった。
だからわたしはホメオパシーのありとあらゆる本を買いまくって読んだ。
わたしにも使ったけど、それ以上に祖母に使った。
本当にヒーリングツールたちには感謝してもしきれないくらいに感謝してる。
アロマやエッセンス、ホメオパシーやハーブなど・・・自然に対してすごく感謝してるし、敬意を払っている。

最初の手術のときは祖母はリハビリを頑張った。
わたしも頑張った。
ようやく歩けるようになっていたんだ。
車いすには常に乗っていたけどトイレまで、見守りがあってつたっていけば、の話しだけどね。
でもわたしに迷惑かけたくないといって、わたしを起こさないでなんども一人でトイレに行っていた。
夜だと余計にそうする。
すると朝トイレで転んでそのまま冷たい中何時間もいた状態に気づくなんてのを何度も介護する側としては見てきた。
「だからー、あのさー、おばあちゃん、わたしに迷惑かけてんじゃん!
ちゃんといわないでこっそり行くほうが迷惑なんだよ!」
ってかんじでわたしは祖母に怒ることばかりだった。

二回目の手術のときは、祖母もやる気を失いつつあった。
わたしも介護をずっとし続けてきて、疲労感はかなりあった。
だけど祖母は外科的には手術そのものは成功したんだけど
神経に傷がついてしまったということもあって、腓骨神経麻痺が起きてしまったのでリハビリしてもムダだといわれてしまった。
それにリハビリするのに集中力も忍耐力もなくなってしまい、
さらには心肺機能や、一番言われたのは認知の状態がかなりよくなくなっているといわれ
認知症の進行のためリハビリをしても回復が望めないとわたしはPTさんにいわれてしまった。
一回目の手術のときはPTさんほか病院のスタッフに
「わたしも祖母と一緒に頑張ります」といってなんとか精神を鼓舞してきた。
そしてそれは祖母にも伝わった。
二回目は祖母がすでに認知症が、病院内で寝たきりが続いたために相当進行してしまった。
入院していても、歩けないのでずっと天井を見ている状態だ。
こんなんじゃ筋肉も脳も衰えちゃうよ!とわたしはすごく思ったので何度もやはり通った。
だけど、わたしも介護2年目になっていたのでかなり疲れていたのも事実だった。
でも、おばぁちゃんによくなってほしいって気持ちは強くあった。
それなのにわたしは疲れで動けなくなった自分を責めていた。
もっとわたしが動けたら、、、もっとわたしが・・・もっとわたしが・・・っていう罪悪感がすごく強かったんだ。

祖母がはじめて入院した当時、父親は会社の役員だった。
そんなこともあって、お金は払っても祖母の介護をするのはむつかしいといわれた。
それに父親に脊柱管狭窄症を患っていたことも知っていた。
だから父親にも無理させたくなかった気持ちがあった。
父親には小さなころさんざんひどい目にあわされたけど、
当時わたしはもう、そういうことはどうだってよくなりつつあったんだ。
でも、年中ヘルパーさんを呼ぶわけにいかないし、介護に男手が必要だった。
わたしには2つ年下の弟がいるんだけど、弟は就活中。
わたしは仕事せずに介護を24時間祖母につきっきりじゃないと無理な状況だったので

当時わたしは仕事もなにもあきらめていた。
わたしには何かするにも資格もなければ特筆すべきこともできない。
わたしは履歴書なんて書いたら、何も書くことがないような状態だし。。
ま、とにかく祖母の介護をすると腹をくくったので介護に専念することにしたんだ。
弟に介護を手伝ってくれと言ってはみたものの
「俺に一生生きていける分の金をくれるんだったらやってやってもいい」
って返された。
「わかったよ。じゃあ、一回だけ、夜のオムツ交換やってくれ」
といった。
そしたらその一回で根を上げたんだ。
「ごめん。おねーちゃん。俺には向いてないわ」

そして母親は・・・
「おばあちゃんとわたしには血のつながりがないのになぜわたしがやらなきゃいけないの?」
っていうかんじでした。

結果、母親は実の両親の介護も叔父の家に任せているので
なんかね、わたしはわたしの家族たちが何か問題があるとすぐに逃げるかんじが
とにかくすごーーーくいやだった。
問題から逃げてばかり、責任転嫁し、押し付けてばかりなのはどうなの?と。
わたしは逆にそういう問題にいつも向き合ってきてばかりいた、というか、わたしは逃げることが嫌いなんだよね。
実際逃げたいとは思ってはいるけど(笑)性質的に逃げられないというか、逃げたら負けだと思っていた人なので。。

介護を経て、本当に自分がやりたいことについて集中していこうと思って今に至るのだけど、
当時は親の問題、家の問題いろいろやってきて(少なくともわたしなりにやってきたつもり)
もう自分のテーマだけ解決するわ!っていうかんじで今に至る。。。
自分の問題と他人の問題、それぞれの境界線を当時はわからなかったので仕方なかったんだけど・・・

わたしは介護をわたしが引きうけた理由は、祖母が好きだったこと、祖母と一緒にしばらく住んでたこともあったけど
わたしにとって大切なおばーちゃんの介護を、逃げてばかりの人たちにやらせても祖母がかわいそうと思ったことだった。
で「わたしがみんなやる!」ってなっていった。
みんなが逃げたらおばーちゃんどうするのさ!かわいそうでしょ!ってかんじでね。
まぁ、それくらい祖母が好きだったってことですよ。

ケアマネさんにはがんがん伝えていったよ。いろんな家の話しを。
ケアマネさんとは同世代だったから、いろんな話ができたんだ。
友達が増えたみたいな感覚で家族のことおばーちゃんのこと、わたしのこと、みんな包み隠さず話した。
一方わたしは年下の友達が非常に多く、当時まだ友達はみんな20代の子たちしかいなかった。
だから介護のこというと「大変だね~気分転換に遊ぼうよ」ってかんじなノリなんで、
そういう友達には介護のことなんて話すにも話せないですよ(笑;
だから介護についてはケアマネさんとか施設の人、看護師さん、お医者さん、ヘルパーさんなど介護関係以外誰にも話せなかった。
だって両親とか家族にだって話せないんだよ?
わたしはどんどん孤立感が強くなっていった。
閉じこもり気味になっていった。
だからおばあちゃんとは以前より密に接することができた。
介護しなかったらきっと、こんなにお話ししなかったと思う。
わたしは基本的に人と密に接するのが家族ですら苦手なタイプ。
だからそういう経験も必要だったのかもなと思いこませてみたり(笑
「おばあちゃんは、わたしが、絶対守る」
そう心から誓っていた。
それくらいだったから、祖母がいなくなり、いきなり現実に放り出された気分になった。
介護は大変ではあったけど、夢みたいでもあった。

時間はたち、わたしと祖母は神奈川の実家に移り、祖母が亡くなった。
そしてほどなくわたしはセッションもやらさせてもらうようになった。
だけどやっぱり最初はお客さんがあまり来ない。
そんなときエッセンス仲間の友達がわたしの自宅の近所でアロマをされてる方のサロンで講師をすることになった。
わたしは友達のところに遊びに行く感覚で講座に出た。
それから結構いろいろと興味ある単発講座に出てみようと思い、
ある日出た、生活の木の単発アロマ講座の講師の先生に
「あなたはいろんな講座に出てみたほうがいいかも」
という会話があってから、それをはずみにして、
とにかく、月に1回は何かしら講座をみつけていこうとし実践していった。
そんな中、みつけたのが、まさにアルカディアさんの講座だった。

「あれ?このサイトみたことある。住所も近い。。。もしかして!」
そう。祖母が入院していた病院のそばで、あのとき探していたサロンそのものだった。
わたしは講座があいていたものにいって
そこから毎月のように何かしら通い始めたのがきっかけだった。
そのときの記事がこちら↓

魂のリトリーバル(鎮魂)~品川神社行ってきた 2013-11-14
http://funkysista.blog88.fc2.com/blog-entry-2917.html

上記記事にも書いたけど
祖母が北品川で入院してたときに、車いすで寺社に連れて行ったんだ。
でも神社は階段があってお参りできなかった。
品川神社の階段下に車いすのおばあちゃんを連れて行ってお願いしたんだ。
そして虚空菩薩さんをお参りしに行って、
成田山のところは車いすだと入れなかったのだけどね。
お寺さんによくしていただいたんだ。

実はおばあちゃんを入院先で年越しさせてしまったことにわたしは罪悪感を抱いていた。
私に力があれば。
わたしにもっと祖母を癒せる力があれば。
わたしにもっと体力があれば。
ごめんね、おばあちゃん。

12月31日の夜に祖母の病棟に行って夕食を食べさせて、時間で帰らなくてはいけなかった。
看護師さんにきいた。
「おばあちゃんと初日の出見たい」っていったの。
「だから7時前に来てもいいですか?」といったらOKいただいて。

朝早く初日の出見に行ったんだ。
もっといえば友達と一緒に横浜で過ごしてたんだけど
わたしは友達をあつめて「年越しヒーリング」みたいなお遊びイベントみたいなことを親しい仲間内でやっていた。
ヒーリングとは無縁の子たちばっかりだったのだけどね(笑)
で、早朝、おばぁちゃんところに行きたいからといってわたしはそのまま車を品川まで走らせたんだ。

病院についたら、おばぁちゃんはナースステーションのとなりで食事待ちの状態だった。
一人では食事ができない状態だったから。
初日の出見に行くよ!っていっておばあちゃん連れて病院の屋上行ったんだ。
おばあちゃん認知症だったからお正月っていうのをわかっていたりわからなくなったり。
だから、なんというか、一緒に初日の出見るとかなんてのは、こちら側の気持ちの問題ではあるんだけどね。

「初日の出だよ!」というと祖母は
「まぶしいから嫌だ」って態度とるんだよw
わたしは
「なんだよ、おばあちゃん、かわいげないなぁ、せっかく来てやったのに!」
なんて言ったことを今でも覚えてる。
今思えばわたし、やっぱし相当おばあちゃん大好きだったんだよなって思う。
だからこそ介護をいっぱいしたんだよな。

亡くなったときはそりゃ悲しかったけど、悲しい気持ちより、
「足掛け7年介護をやりきった」という妙な達成感だったり
スピリチュアルの世界もわかっていたので
「天に召される」という感じだった。
だから「おばぁちゃん大好きだよ」「おばぁちゃん、愛してます」という気持ちがすごく強かったんだ。

おばあちゃんがいなくなってもうすぐ5年になるんだな。
いま、わたしは「自分のために生きる」ということにようやくシフトしてきている最中だ。

こんなわたしは私を「大事に」してこなかったんだろうか?
わたしはこれまでずっと人のために生きてきた。
でも、これは、人のことを大事にしすぎただけなんだろうなと思っている。

わたしはわたしの問題や魂の学びや成長があるように、
人それぞれにそれはある。
どんな形で協力していけばいいのか、サポートしていくのかは
その人が自分と他者の境界線をどれだけ認識しているのか、でもある。

わたしは、わたしのために生きる。

そんな、一見誰でもしてそうなことが、わたしはしてこなかった。

自分を見つめていくきっかけをもらったのもアルカディアさんだった。
今回誕生日の日、時間に覚醒ワークを受けるとは、
これもなんだか出来すぎてるよなぁ。。ってかんじ。

この先もいろいろとお世話になると思うけど、
いろんなご縁を、おばあちゃんが、紡いでくれたんだなって思ってます。

最後までご覧いただきありがとうございました!
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