花魔女★れいあ

花魔女★れいあ

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はい、れいあです。

みなさんは落ち込んだ時や、落ち込みたい気分?のときに
聞く、聴きたくなるような曲はありますか?
日本の曲だと、歌詞がしみて、泣けてくるものもありますよね。

わたしは、悲しいときは曲はきかないのですが、
先日からの魂の闇夜のようなとき、
それは10代のときにすでに出会っていた曲なんですが、
10数年に一度、無性にききたくなる曲があります。

悲しい時でなく、一言でいえば、

絶望

の中にあると



のレベルで

スピリチュアル的な絶望感のときに
無性に聴きたくなるのです。

それは、おそらくは、わたしの過去世で
何度となく繰り返してきた
宗教、
とりわけキリスト教に関しての過去が多い気がしています。

先日のセッションで、新規の方のセッションをさせていただいたんですが
キリストとの関係性についての目標設定がでたんですね。
そんな目標設定、経験なかったんですが、
そのお客さんは過去世で、おそらく魔女狩りにあったりしていそうなんですね。

わたしは魔女狩りにこそはあったことがなかったかんじなんだけど
先日のセッションでは神とのつながりについてテーマになるなど、
これらはわたしが誘導してはいませんが
過去の宗教的な絶望感についてが、ある意味現在に影響をもたらしています。

わたしも、先日記事にしましたように、
今現在も、以前ほどまではいかないけど
未だに絶望感のさなかにあります。
話しましたが、スピリチュアル的な絶望感です。
なにかあって悲しいのではない、
神とのつながりをなくしてしまった絶望感です。

これから、セッションが変わることになったきっかけをお話いたします。

11月に、これまでわたしのセッションに長く参加してくれたジョフィエルと話しあいました。
実はわたしはセッションにおいてずっと無力感をどこかで感じていたのです。
それをジョフィエルは悲しみました。

わたしはあくまでも、ミディアム(媒介)にすぎないと感じたし、それに徹していました。
つまりわたしは、わたしのセッションはしておらず、
ジョフィエル主導のセッションを行なっていました。
そしてそれをわたしは望んでいました。
スピリチュアルなサポートを受けながらのセッションなので、よいことだとも思っていました。

しかし、セッションを自らの創造の力でなく、
すべてまかせてしまっていたことに気づきはじめたんです。
これに対して、お客さんに対する責任感や、罪悪感もどこかで生まれていました。

わたしはこの世の中に生まれてきたのに、わたしは創造のエネルギーも、表現もせず、
受け身でしかなく、ずっと任せていたのです。
そこにわたしはいなかった。
わたしは、導きを伝える役割があると思ってこれまでずっとセッションをしてきました。
一方でわたしは、繋がらなければなにもできない、
無力でダメな人間であると自分を責め続けてもいたんです。
わたしはひとりではなにもできない。
スピリットにサポートを常にしてもらわなくては、わたしはなにも決められない。
これでは、生きているに値する価値がわたしにはないのではないか?
生きるってどんなことなんだ?
と強く思うようになっていった。

わたしは自己否定をし、無力を感じていたことに、このタイミングで気づいた。

これはわたしの実力なんかじゃないんだ、と。
わたしの創造の力でもなく、わたしの表現でもない。
だからこそわたしは、
もっとわたしの中にあるわたしを目覚めさせないといけない、
と感じてきたのがセッションを変える大きなきっかけだった。

わたしは、わたしのセッションがしたい!

そんな気持ちがふつふつと湧き上がってきた。

カウンセリングのみで、ダウジングをつかわない日もあったし、
スピリチュアルなサポートをする存在たちにヒーリングを手伝ってもらった日もあった。
その日は、わたしは一言も話さないという前提で行なった。
つまり、わたしはどれくらい話したらよいのか、
お客さんは、沈黙の中でどれだけ自らの中に入ることができるか。

しかし、わたしは、人のお話をききたかった。
コミュニケーションを通じていくほうが、現実的だし、
コミュニケーションが苦手なお客さんも少なくないので
やはり、お客さんが、自分をみつめて伝えていく、
そのほうが、よいのかなと思ってきている。

しかしわたしはジョフィエルのセッションが好きだったのも事実だ。
彼女の導きだす言葉、明るさ、光へとすすみ、希望をお客さんに与え、元気にしていくセッションが。
でもそれは彼女のセッションであり、彼女の在り方。
だからこそ、わたしの力では無理だと感じた。

わたしには、きっと、わたしのセッションがあるはずだ、と強く感じるようになっていった。

実はわたし、現在、スピリチュアルエマージェンシーの真っ只中にいるんですね。

ゆえにわたしは全くの無力であり、
再び、いまのわたしのように、天との繋がりを失ってしまった時、絶望感しかなくなってしまう。
わたしには、わたしがなかったから。
だから、わたしは、どこにもいないんだ。
それは途方も無い絶望であるともいえます。
セッションは、どちらにしろこのタイミングで変わることになっていたのでしょうね。

スピリチュアルエマージェンシー(巫病)は今回で4度目となる。
以前は仕事を休まざるを得ないほどの恐怖とパニックの中にいた。
スピリチュアルエマージェンシーの内容はいつか公開できるときがくれば公開したいと思っている。
とにかく睡眠もろくにとれずに一日中苦しみや恐怖を味合わなければならない。
物質界で起きてるわけでないため、逃れることができないのだ。
そしてわたしの闇の部分を気付かさせることが次々おきていく。
それにもまた、向き合わざるを得なくなる。

最終的にわたしは、わたしのセッションをしなければならないと強く思うようになっていった。
だけど、一方で、わたしには力がなく、無力だという自己肯定のなさがある。
これまで、ジョフィエルによるサポートでのセッションだったけど、
わたしが舵をとることで、お客さんたちが失望してしまったらどうしよう、と悩んだ。

思うほどに、わたしには、
なにがなんだかわからなくなっていった。

わたしは、わたしだ。
わたしは、ここにいる。

わたしは、わたしとして、生きていなかったのかもしれない。

わたしはいったいだれなんだろう。

わたしはどうやってこれまで生きてきたのだろう。

神との関係性を断たれたような絶望感にあるとき、
いまのわたしの気持ちを一番曲としてあらわしている曲。
それがわたしにはマタイ受難曲だった。

これは新約聖書にあるマタイによる福音書の26-28章を題材にしたバッハの曲。
この部分は、イエスの死と復活の章なんだけど、
わたしは特にマタイ受難曲の一番最初の

Matthaus Passion
BWV244 第1曲 合唱 来たれ、娘たちよ。我と共に嘆け(Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen)

の合唱部分がすごく気持ちがいまのわたしに一番あっている。

これは、シオンの娘たちと信じる者たちの対話形式の部分で、
イエスにこれから起きる受難について歌われている。
また、イエスが、自らが十字架にかけられることを予言した部分でもある。

ちなみにこの娘たち、とは、シオンの娘たちをさす。
シオンとは、旧約聖書の詩篇では、エルサレムの住人をさすが、
新約聖書では、ヨハネ黙示録などでは、天における神の都をさすのだそうだ。



ちなみにマタイの中で一番有名であろう曲は
第47曲 アルト・アリア 「憐れみたまえ,わが神よ」 になります。

J. S. バッハ 《マタイ受難曲》 「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス


わたしは学生時代、高校、大学と、クリスチャンスクールに通った。
そこで、クワイア(聖歌隊)をしていた。
クワイアは、神に歌を捧げる役割がある。
しかしキリスト教に対する信仰心はわたしには、正直わからなかった。
だけど、宗教を超えた向こう側にある、絶対的ななにか、
それを信じている。
我々は全てつながっているのだと。
全てのものの源泉、ソースなんだと。

それが、おそらくは、光であり、愛なんだろうと信じている。

わたしは光を信じる。
__闇の中で、今は、なにも見えなくても。
____わたしは本来、光であることを、たとえ今は思い出せなくても。
闇の中でこそ、光はその輝きを強く放つ。

人はその光を神と呼ぶかもしれない。
創造主と呼ぶ人もいるだろう。
天と呼ぶかもしれないし、
ユニバースとよぶ人もいる。
大いなる存在、グレートスピリットと呼ぶ人もいる。
___わたしはこれを宇宙とよぶ。
なにかわからない、この絶対的、普遍的な、なにかを。

いま、わたしにあるのは、わたしの中にある叡智、だと思っている。
わたしは自らの叡智をもとに、いまはセッションをしている。

わたしはこれを望んだ。
天、宇宙との繋がりではなく、
わたしは、いま、人とのつながりに。
もっと目を向けていきたいと感じた。
それは、わたしが、お客さんが、
現実をよりよく生きていくためにも。

自らの人生を生き抜く力。
人生を切り開いていく力。

お客さんにも、つけてもらいたいし、
お客さんが今より、もっとパワフルになっていくためには、
まず、わたしが、パワフルになって
その感じたことからお客さんの可能性を引き出していきたいと思った。

実際、わたしはまだ、闇を切り抜けてはいないし、絶望感の中にある。
スピリチュアルエマージェンシーの苦しみの中にいる。

わたしは自分にも目標設定が必要であると感じたので
わたしはダウジングでセルフセッションしていった。
ヒントをきくと、前回の闇の記事にあるという。

闇からの脱却 on November28, 2016より
http://funkysista.blog88.fc2.com/blog-entry-3759.html

「破壊されていくような無への挑戦。」

に反応した。

中でも「破壊」に反応した。
どうやらわたしには自己破壊してしまうなにかが潜んでいるようなんだ。

幸せになりたいと、思ったとする。
大切なものや人がいたとする。
わたしは10-20代のとき、
幸せになりたい気持ちがありながらも、
幸せになりそうになると、
全てを壊したくなる衝動にかられてしまっていたことを思い出す。
わたしはその後、パニック障害から始まった、精神疾患による向精神薬を長きに渡り、かなり飲み続け、
気づけばわたしは廃人のようになっていた。
わたしは自らを壊してばかりいたんだ。
わたしは、まず、そんなわたしに、
しっかり謝らないとね。

ごめんね、わたし。

つらかったよね。

傷つけてばかりいて、ごめんね。

いまも、傷つけているよね。

わたしは、目標設定のキーワードを探していた。
すると、うかびあがったのは、
現実を生き抜くとは違う方向だった。



許し
感謝
大天使ザドキエル

大天使ザドキエルは「許し」を達成することを助け、霊的な気付きを支援する。
また、何らかの理由で自分や他人を許せないという時や、
否定的なエネルギーを肯定的なエネルギーに変え心や体を浄化するらしい。
また恐れやカルマを手放すことで、
新しい概念やアイディアを得ることを助ける役目を持つそうだ。


そして完成した文章が

「感謝して 許す ことは
光であることを思い出すので
大天使ザドキエルにつながり
愛として 生きることで
幸せを日々感じています」


宣言をしたあとで、調整をした。
チャクラの統合が必要とでた。
その方法はエッセンスでも、アロマでもなく、
エネルギーヒーリング だった。

再び宣言文をいうと再度調整必要と出た。
次は、愛へとこころを開くことが必要らしい。
その方法は再びエネルギーヒーリングで、
また調整した。

再び宣言文を読み、やはり調整が必要で、
内なる光を輝かせることを手伝うエネルギーヒーリングをした。

こんなかんじでセッションが変わることに至った理由をこのたび公開してみました。

セッション形式はこの先も変わるでしょう。
でも、今回はとにかく、わたしの内面に意識の変容が、おきている。

いま、わたしは、スピリチュアルな垢を落とそうとしている。

スピリチュアルエマージェンシーの状態ってね、
毎回、まるでパンドラの箱をあけてしまったような状態になるんだよね。
だから、最後には希望があることを、信じていたいんだ。

ここに希望があることを、信じたい。

そして願わくば、みなさんに、
希望は誰にもあるものだから、
希望を引き出すような、
希望に向かって生きていけるような、
そんな自分をしっかり抱きしめて、生きていけるような、
そういうセッションをしていけたらいいなって思ってるよ。

わたしは、みなさんが
「光に向かって、目指して生きていく」
というセッションではなく
「わたしたちは、本当は光である」ということを「思い出していく」ようなセッションをしていきたい。

わたしはみなさんが、自らが光となって、まわりを照らしていけるような人たちになってほしい。
そしてそういう人を一人でも多く、増やしていきたいんです。

皆さまが、光であることに、少しでも気づいていけるように、
希望をもって喜びの中で生きていけるように、
一人でも多くの人が、闇を照らすような光輝く存在になっていってほしい。

そして、わたしもそうなります。

そんな思いで、わたしは日々セッションをしています。

よくお客さんからご感想をいただくのですが、みなさん

「一緒に走ってくれてありがとう」

といわれます。

わたしは確かにセラピストであり、ヒーラーなのだけど、
ただ技術を提供する、癒しを提供するだけではなく
みなさんと「ともに歩む」「ともに寄り添う」ことを大切にこの先もしていきたい。

今回、とても重い内容を書いてしまって、どうかなぁと思ったりもしたんだけど
これもわたしだということを、本来隠したほうが良いのかもだけど
わたしも人間だし、悩むし、苦しみます。
それをどうとらえるかはその人それぞれですが、
わたしはお客さんたちから学んでもいます。
わたしからの一方的な押し付けではなく、
ともに歩んでいくような関係であることがいいなとわたしはずっとこれまでも思っていました。
わたしもこういう暗闇の中にあること、わたしも人間だからこそ、悩み、苦しむ、
でもそれを乗り越えたらそれだけ成長し、もしお客さんがこのようなつらさを味わったとき、
セラピスト、ヒーラーとして以前に、人間としてのわたしだからこその
なんらかのヒントやとらえ方になってくれたらいいなと思って書きました。
そこにわたしがいることで、誰か味方というか、心でそばにいるという存在を
スピリットの目に見えない世界ではなく、
リアルの人間として、ここに、心でそばにいるわたしがいるよ、
そんなかんじのことも行間からでも伝えたかったんだ。

わたしは いつも あなたと共に います。

苦しいとき、つらいとき、あなたのそばにいます。

あなたは ひとりじゃない。

わたしは、あなたと共に 歩みます。


そんなセッションを、これからもしていきます。

★ 最後に、クリスマスが近いのでマリア様関連を ★

カッチーニ(ヴァヴィロフ)のアヴェマリアです。
アヴェマリアはシューベルトが有名で、
バッハのアヴェマリアも美しいですが、
カッチーニ(本当はカッチーニじゃない説があるけど)のアヴェマリアが
とても美しくて、だけどどこか悲しくて、
わたしは一番好きかなあ。

Hayley Westenra - Ave Maria


こちらはアヴェヴェルムコルプス。
モーツァルトの曲です。

わたしは中学、高校と歌(合唱部)をやっていたんですが、
中学の時に、はじめて部活で歌ったのが、この曲でした。(中学は公立でキリスト関係ではなかったけど)
中学のときは、この美しさがわからなかったけど、
いま、わたしがとても好きな曲のうちのひとつです。

Mozart Ave Verum Corpus por Leonard Bernstein



「わたしは 真に 人の役に立つためだけに、ここにいます。

わたしをここへ送ってくれた大いなる存在が 教えてくれるので
わたしはなにをいうべきか なにをすべきか
心配する必要はありません。

大いなる存在が わたしに癒し方を教えてくれるので
わたしは、クライアントと共に、癒されます。」

(奇跡のコースより)

あなたの光を、人々の前で 輝かせなさい(マタイ 5-16)



(追記)
いくつか、最初にアップしてから追記してきたんですが、、、
いま改めて気づいた記録として。

わたしは絶望感の中にあるけど、すべてに絶望しているわけではないこと。
絶望感と絶望は必ずしも一致しないんだと思いました。

わたしがヒーリングを知る直前、
その年に、交通事故にあい、数ヶ月したら、リンパの病になり、40度の高熱が1か月続きました。
このとき、どんな、薬剤もきかずにいたんです。
リンパの腫れはまったくひかずに痛いままでした。
そのとき臨死体験的な体験をしたんです。
わたしは痛みがひどく眠れずにいたし、熱も下がらず絶望的な気持ちでした。
でも一ヶ月たった頃、わたしは、生きることについて、諦めたんです。
生きたいという気持ちがなくなり、わたしは、天国にいきたいと、そちらの気持ちになっていました。
わたしは安らかになりたいと願いました。
当時のわたしは精神世界は信じていませんでした。
わたしは天国にいきたいと思ったとき、わたしは幽体離脱をしたようで、透明な小さな扉から、どこかの世界に入りました。
それは、ネガティヴな感情や感覚の一切ない世界でした。
だけどここはわたしのいる場所じゃないと感じ、戻りました。
そのとき、わたしは、わたしの寝ている肉体を眺めていました。
そのあと肉体に入ってから、熱が下がりはじめ、痛みがひいていったのです。
手がうてない状態だったのに。。
それから徐々にわたしはセラピーやヒーリングの世界を知り、実践していきました。

わたしが今回こんな話を最後に追記でしたのは、
絶望の中に、わたしは安らぎを見出していた。
あのときの臨死体験はわたしのエゴの死だったのかと思うくらい
わたしは絶望と安らぎを通じて新たな世界を知りました。

そのときは肉体の辛さでしたが、今回はスピリチュアルな辛さの絶望感なのです。

わからないけど、
きっと、わたしは、また、生まれるのかもしれない。
わたしは何度も生まれ変わるのかもしれない。

生まれ変わるために、この絶望感は必要なプロセスなんだと信じてるんです。

この絶望感をも含めて、すべてがわたし、なんです。
わたしはわたしを愛するためには、
絶望感をも含めた全てを愛する必要があったのだと思う。

絶望はわたしの外側にあるのではない、
わたしの中にあるんだ。

だから、それをもひっくるめて、
ネガティヴなものもすべてわたしであり、
それは、わたしの中のネガティヴをも愛することが必要なんだろうと思う。


ネガティヴはみんな、きらいなものであり、見たくないものだし
そんな自分なんて向き合いたくないかもしれない。

でもね、ネガティヴも含めて、みんな、みんな、
自分そのものなの。
ネガティヴだ!解放だ、浄化だ!
確かにそうしたくなる。
いやだし辛いからね。

だけど、ネガティヴも、わたし、なの。
ネガティヴも含めて、みんな受け入れて、愛すること、

解放はそのあとでもいいんじゃないのかな?

わたしはそんな気持ちでいる。

ネガティヴな部分は誰でもあるんだよ。
人間として生まれてきたんだもの。

誰かのネガティヴが気になるとき、
それは誰かのネガティヴに共鳴する自分が嫌なときもある。
誰かのネガティヴを色々感じたら、自分の中のネガティヴはどうか感じてみる。

わたしの中にあるネガティヴを今回、徹底的にわたしは感じた。
ネガティヴをすごく噛み締めたし、味わった。
そしてわたしはいま、絶望感の中に安らぎと平和、調和を探している。

ネガティヴを受け入れたいま、

ネガティヴなわたしを含めて、わたしはわたしを愛していきたい

と思ったいま、

きっとなにかが変わりだす。
きっとなにかが動き出す。

だけどいまはまだ、わたしがどう変わるのかまではわからない。

わたしは、わたしを、信じてる。


そんなことを、この記事の最後に付け加えたかったんだ。

最後まで、お付き合いくださり、ありがとう。