in メディアリテラシー

情報化社会におけるリテラシーのあり方を思う

-- COMMENT
はい、れいあです。

この20年における情報についての変化ときたら、本当に目まぐるしく変わり、定着している。
わたしのはじめてのパソコン体験はMS-Dosだったが、その後すぐにWindows3.1をはじめた。
翌年あたりからインターネットをはじめたのが1994年のこと。
まさにインターネット黎明期であった。
そして、その後まもなくパソコン通信をはじめたという経緯がある。
音楽関係の仕事をやめ、WEB業界、プログラミングやWEBデザイナーに転職したのは2000年代前半の数年のことだった。
わたしがWEBの世界を降りてから、時代はいわゆるWEB2.0がブームとなる。
ADSLのような常時接続が一般化し、様々なWEBサービスが台頭しはじめ、
人々はWEBの世界を、以前より、より身近に感じるようになっていく。

この10年ではスマホ文化がかなり定着したが、
さらに10年前にはネット社会というものがようやく定着したばかりで、携帯ではi-modeが主流だった。
やがてスマホの普及によりWEBの閲覧が容易にできるようになったことは
SNSの関心が高まる中で、ネット社会をより浸透させていくこととなった。

いまや人々の身近な生活におけるところにまでネット環境があるのは誰もが認めざるを得ない事実であろう。
しかし、まさか10年前はスマホに熱中しホームに佇む大人が増え、車内放送でまで歩きスマホの注意がなされるレベルというのは
ちょっと人間はスマホに支配されすぎているのではないかとも思う。

日本選手団「歩きスマホなし」入場行進に賞賛の声
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160806-00000038-dal-spo

一方、テレビのほうも地デジ化されたが
わたしにとっては、これにより、よりテレビ離れがすすむ原因のひとつとなった。

テレビのほうでは下請けを含めた番組制作会社のことや、広告代理店、スポンサーのことなど含めたら
とてもではないけどこの記事内では収まらないので今回はやめておく。
しかしそれらを含めたものが、魅力的な番組制作へとうまくつながらずにいるように思えてならない。


あなたにとって必要な情報はどこで、なにで集めますか?

あなたが必要とする 情報 とはなんですか?

ということにフォーカスしたとき、
その昔は、新聞、と答えるか、テレビと答えるかの二択となるケースが多かったと思う。
または書籍や雑誌などの活字媒体かもしれないし、ラジオかもしれない。
今ではこれにネットも加わり、
現在では、それこそ昔は問われずにいたメディアリテラシーやネットリテラシーといったものが問われるようになってきている。
どのように情報を使っていくか、がリテラシーなのだが、
うまいバランスで情報を取捨選択できればよいのだが、
これらのリテラシーは新しい時代に求められる、ある種の「能力」ともいってよいものなのではないかと思う。
今回は、そういったリテラシーについて、思うことを書いていきたい。

わたしたちは、メディアやネットといった情報媒体がなくとも
本来何かしらの情報を受発信している。
街に出れば、広告があちこちにある。
色々な音がする。
どこかで食事をすれば、飲みもの、食べものはまさに情報だ。
香り、味、色、食感などなど。。
誰かとの会話をしたり、話していることが耳に入るのももちろん情報伝達となっている。
そもそも、本来のシンプルな情報であれば、
五感は刺激されていく。
それは魂のご馳走でもある。

本来、情報なんてものは、それくらいで充分なのかもしれない。

しかし現代のわたしたちは、貪欲に情報を求める機会が増えた。
情報は実に多種多様になってきている。
そのような中、本当に自分に必要な情報など、どれほど選択できているのだろう。

一方で、情報を「発信」し、伝える側の手段や機会も多様化してきた。
もちろん、わたしのようにブログから発信していくタイプのものでもプロブロガーが存在したりするし、
この数年ではYou Tuberたちが、子供たちに人気を博している。

SNSに至っては、ひとりひとりが『表現者』である。
自分をいかに見せるか、自分をいかに売り込めるか、注目をより多く集められるかを競っているように感じることすらある。
そんな中でSNS疲れを起こしてしまう人もでている。
従来との大きな違いは、やはり、
発信者がマスメディアといった大きな媒体だけではなく、個人単位の中での発信者が非常に増えてきたということだ。

このような情報の海の中から、本当に自分にとって必要とする情報は、はたしてどれくらいあるのだろうか。

いまや、メディアは大きいものだけでなくなった。
個人発信のものでは、もちろんその発信者の思想であったり、考え、などの表現が含まれることもよくあることだ。
しかし昔のわたしはマスメディアというものは平等に情報を発信しているものだと思っていたのだけれど
それこそネットの普及により、新聞社やテレビ局によりそれぞれの思想の偏りがあることを知っていった。
そう、いわずもがな、わたしたちは報道というもので無意識のレベルまでをコントロールされている。
しかし10年前のわたしだったら、まだよくわからないでいた。

いまは既存のメディアとWEBとの共存関係であったり、
情報の伝達というあり方や既存メディアの存在意義が問われているのではないだろうか。
これをもっといえば、放送法などにいたるまでの見直しが迫られているのではないかと。
個人レベルの情報への信憑性も問われるのであれば、
マスコミ各社の信憑性も揺らいできている。
ならば、わたしたちはなにをいったい信じればよいのだろうか。
これは大手メディアに偏向報道などがあるならば、なおさら、である。

政治的な意図がある報道ではなくとも、たとえば先日の都知事選挙でおもな報道がされていたのは、
小池さんと、増田氏、鳥越氏の三人のみであった。
だから、テレビしか情報がない高齢者などは、必然的に、この、なんとなくきいたことがあるひとから選ぶ傾向が強くなる。
選挙のみならず「報道しない自由」を守り続ける報道体勢。
これに限らず局や特定の業界や団体に都合の悪い内容を避けているところもある。
また、先日の障碍者施設における事件の被害者において匿名報道がなされたとき、
他の事件の被害者にはなぜ卒業アルバムなどすべてをさらしておくのにという声もあったが
わたしもなぜ被害者の名前だけでなく、プライバシーをここまでさらすのだろうと事件や事故の報道があるたびに思っていた。

しかし、そもそも疑問なのは、マスメディア発信の情報で、
「そういう情報って必要なのかな?」
「こういう事件の詳細って必要?」
と思うことが実に多い。

たとえば、わたしがうまれる前は日本でも人身売買がなされていたようだし、
いまだったら、いろんな団体が糾弾するであろうことだと思う。
毎日テレビの報道では、事件や事故、スキャンダルのオンパレードだ。
こんな事件や事故が頻繁にあるなんて、いまは物騒な世の中だなと思いがちだけど、
警察発表だと、昔よりだいぶ減ってきているときいたことがある。
このような印象づけは、やはりメディアの報道内容の取り扱い方と関係してくるのではないだろうか。

では、メディアの役割とはなんなのだろうか。
情報をいかに正確に、迅速に伝えるか、なのであればなおさらだ。
どの情報を報道すべきかということも、局や会社の方針ひとつなため
自由に報道すべきものか(表現の自由)そうでないものか(報道の自粛)を
個人でなく大手の情報の発信側が選択することを各社ともにしている。

わたしたちはかつて、大手メディアがそのように発信した情報を信じてきた、というよりも何も考えずに鵜呑みにしてきた経緯がある。
結果メディアは権力を握り、人心や政治をもコントロールできてしまうようにまでなっていった。
先ほどもメディアが注目する候補しか都知事選挙では騒がれなかったと話したが、
自民や野党からの推薦を受けている増田氏や鳥越の、もしくは元防衛大臣だった小池さんに注目が集まるのは仕方ないことだとは思うが
逆にそれ以外をほぼとりあげないのは、やはり報道のあるべき姿をなしていないのではないかと思う。

今回出馬した、4位だった上杉氏は、わたしが知ったのは、東日本大震災のときだったけど
上杉氏はジャーナリストということもあるが、記者クラブには属していないなどがあり
選挙活動中に、このメディアの在り方を訴えていた。
一方、上杉氏に次ぎ5位の桜井氏については、選挙演説の録画や、ニコ生などを拝見したけれど
ヘイトだなんだといわれてはいるけれど、それはメディアの取り上げ方次第という気もする。
メディアがどんな政治的スタンスで桜井氏をとらえるかでヘイトととるかどうかが変わってくるとでもいうべきだろうか。
それもある種のメディアによるコントロールのように思えてならない。
わたしは桜井氏の演説そのものは、たくさんの人を動員していたし、演説が上手い人だと感じたし、惹きつけるスピーチもあり、印象に残った。

なにより東京都民をどれだけ思っているのかが大切だと思うのだけど
政策論争的なものをメディアはそれほどとりあげていなかったようにも思うので
いかがなものかと思うことが今回特に多かった。

選挙ってメディアが注目した候補から選ぶものではなく
候補者のスピーチを聞いたり、同調したり、感銘したり、共感したりして
この人に任せようとするものが本来の健全な選挙のあり方であろう。
時には対立候補をディスることも、スピーチの中にはあるでしょうけどね。

メディアそのものに、右左の思想がある程度あったり、特定の国や団体との結びつきがあることは
避けられないのかもしれない。
わたしがなにも知らなかった時代に、新聞やテレビ局に、そこまでの思想の偏りがあるだなんて夢にも思わなかったし、
高校時代、大学の講義にさえも思想(日本サゲ)があったのをわたしは経験してきたので、
こんな教育では健全な思想の人間が育たなくなるものだと思うので、
様々な視点から日本を見つめるきっかけとなったネットには改めて感謝したくなる。

しかし前から書いているように、ネット社会にはネット社会の悪い点がもちろんあり、誤情報も当然あるし、玉石混交の世界だ。

SNSにも、やはり向き不向きがある。
わたしは完全に不向きなタイプで、TLで流れる情報に興味を持てないタイプ。
でも、TLを見れば「いいね」しなきゃならないのかと、気づけば自分の内側に「強迫観念」を作ってはストレスになるケースもある。
また、ある種の同調圧力が働きやすくなるのもネットの恐ろしさだ。
なにかとしがらみが面倒くさいわたしは、ブログでしか記事は書かないし、
フェイスブックもインスタもログインしないのがデフォになっていった。

誰かの発信について、どんな反応でいるか、どんなスタンスをとるか、
これは受信者の、境界線の問題とも関係してくる。
自分は、どうありたいのか。
自分の軸はどうなのか、を知ること。
それは、この情報に溢れた世界をどう生き抜くか、ということでもある。

自分には、その情報は本当に必要なのだろうか。
時間のあるとき、情報をただ受け取るだけでなく、
そんなことにも心を傾けてほしい。

様々な媒体から情報はとりいれることができる。
であれば、自分にとって、排除すべきものを知ることも大切だし、
情報の断捨離も時には必要なのではないか。

かつて、テレビをつければ、たくさんの情報が勝手に目にしたり耳にすることで
知らないうちに情報が入り込んできた。

いまは、ネットをつければ、様々な広告は、自分が調べた検索ワード関連情報であったり、
目に入るニュースで、気になり内容を見たものについて、
その人が気になる傾向のニュースが関連づけられるサイトもある。
これらすべて、個人情報であり、
ターゲティング広告は、マーケティングの一形態となっている中、
求める情報の質が濃くなりやすくもある。
これはある種の自己洗脳のようなものでもあると感じる。
このようなWEB環境の中、やはり、本来の自分を見失いがちになってしまうこともある。

情報を収集する必要があるとき、WEBは、かなり大きな、便利なものではあるが、
その怖さもあることを、今一度、感じていくことも大切だ。

情報を扱うとき、それがWEBであれ、既存メディアであれ、
私たちは、本当に、その情報は必要なのか、
『情報を見ない勇気』も必要な時代になってきたのではないだろうか。
その時、自分は、どんな人間で、どんなものを求め、どんな生きかたをしたいか。
自分についての自己認識、アイデンティティがなければ
気づけば誰かの意見や思想の中に飲まれているケースも中にはある。
それがとても危険なことでもあるということに、
しっかりと気づいていく必要性があるのだ。

情報化社会において、情報の扱い方、取り入れかた、いわゆるリテラシーが大切だと、
各方面からいわれるようになった。

リテラシーを問うとき、
そこで、しっかりと、自分を見つめていく大切さを、
もっと知ってほしいとわたしは願っている。

最後に。。
たまには情報のデトックスも大切なこと。
現代は、意識して情報を遠ざけないと難しいくらい情報過多になっている。
たとえば脳疲労は、情報化社会がすすむにつれ、知らず知らずのうちにおきてくるものだ。
仕事でパソコンを使い、プライベートでスマホや携帯を使い、テレビを見て、、というのは
電磁波という観点からもデトックスが必要になるが、
情報を入れすぎて脳が処理しきれずにいることには、なかなか気づきにくいものである。
身体の疲れやこころの疲れはわかりやすいが、脳の疲れはわかりにくいものだからだ。
脳の疲れは自律神経とも大きな関わりがある。
副腎疲労なども、だるさや疲れやすさ、ヤル気のなさと関係が深いが、
中には脳が疲労しているケースもあるので、
たまには自然の多いところに出向いて情報をデトックスしてみるのもよいかもしれない。


最後までご覧いただき誠にありがとうございました。
  • Share