"Soul Alchemist" Leiya

自分の真実を生きたいあなたに。愛で真実を生きると真理に近づきます。真理を探究する光の錬金術師れいあの日常。

永遠ニ 咲ク花ノ如シ カタルシス

はい、れいあです。

昭和から 平成となり やがてくる
新たな幕開け とこしへの春
(れいあのスピリット・東雲の歌)

これをれいあが詠むと・・・

永遠に 咲く花の如し カタルシス

というタイトルなわけでした。

そんなスピリットとの歌会を尻目に・・・
先日

「太陽の紋章」

というエネルギーをお客様と共につくりました。

大切な人が
闇にいるときに、
苦しみを分かち合い、
光に向けて生きていくため
立ち上がらなくてはいけないときがある

すべては愛のために。

・・・そんなエネルギーです。

太陽神である
天照大神(アマテラスオオミカミ)
岩戸に隠れたとき、
アマノウズメは裸で踊り、神々が笑う中
思わず岩戸から出てきてしまったのが天照大神。
太陽の女神とされています。
(でもやっぱりエピソードがエピソードなだけに天照大神は男性神のように思うw)

一方でセオリツヒメ(瀬織津姫)は、シリウスの光。

しかし、日本では、
瀬織津姫については、
あまり言及されてきませんでした。

瀬織津姫は、時代の象徴のようにも思えます。
瀬織津姫については、様々な文献によれば
アマテラスオオミカミの男性性が
日本をリードしていく形で、
瀬織津姫は、女性性として
日本をリードしていくとか。

現代の日本て、禊が必要なんですよ。

かつてわたしは、地震の研究をしていました。
それは、寝たきりの介護をしていた祖母を
少しでも助けやすいようにするためがきっかけでした。
そのために防災は常にしていました。

体感や観天望気の記録をしていたほかに、
イオンや、地電流ほか、ラドン濃度など様々なチェックをしていました。

一方で占星術の観点からも地震とトランジットの関係についても研究しました。
これには冥王星が絡んでいました。

冥王星はトランスサタニアン(外惑星)に属します。
そのイングレスは、かなりの集合意識になんらかの形を及ぼします。
そのほか海王星や天王星がトランスサタニアンです。

地震の研究をすすめると、どうしてもいきつくところが原発になっていきます。
地震の目安としてラドン濃度の関係もあるため
そのようなものをチェックするため
2008年に放射能計測器を借りたことがありました。
そのときの記事がこちら↓

放射能汚染?その前に。。 2008.06.01
http://funkysista.blog88.fc2.com/blog-entry-904.html

天王星の本格的なおうし座への移動ということもあって一応
天王星はウラノス、で、ウラン関連なので放射能関連は注意したほうがよいかも。

という話はさておき。。。

来たる3月6日。
広島に行きます。

7日に行われる、慶太さんの
魚座ステリアム海王星のリチュアルイベントへの参加です。
https://ameblo.jp/1kine/

これには、わたくしのお客様が、
東京から2名、岡山から1名、広島から1名参加されます。

わたしはセッションで、
ある程度、霊的成長をした人たちに
日本を守ることを
光と祈りでしてもらうことをしています。

セッションでは、そんなふうに、
個人の霊的成長が終わると次のフェーズに入っていきます。
それが集合意識の癒しです。

「光のネットワークを作りなさい」

と指令がきたのです。

そんな折り、慶太さんが、翌日にイベントを行うと発表がありました。
わたしはすぐに参加申し込みをしたかったのですが、闇の問題が浮上してきて、
イベントに参加できたのは、現地参加人数が、あと13人くらいになってから(70名中)

それ以降、闇との戦いが始まりました。
しかし闇の存在については、スピリチュアルでは、あまり語られません。

天王星が3月6日正式におうし座に入ります。

7日の儀式には、
スピリットにも意義深いものです。
うお座ステリアムのこのリチュアルイベントは
キネシオロジーを使って行っていきます。

タイトルにもあるカタルシスというのは
「浄化」
という意味あいです。

わたしはキネシオロジーを医療に根付かせていくことが
とても重要なことだと思っています。
医療レベルで行うことのできるキネシオロジストは
日本では慶太さんがトップだとわたしは思って師事しています。
彼のもとで修行をしています。

エビデンスに基づいたキネシオロジーは
日本ではなかなか根付きません。
その原因には
ヒーリング業界、スピリチュアル業界、キネシオロジー業界・・・
そして医療の保険制度に至るまで
それぞれに様々な闇があります。
特にヒーリングに関していえば
ヒーリングをわかっていないヒーラーが多すぎます。
耳障りのいい言葉を羅列するだけで結果が出ない
なんとなくきいたような気がする
っていうヒーリングってどうなんだろうねと思うんだよね。

日本におけるキネシオロジーの教育を慶太さんは担っています。
よいキネシオロジストを一人でも多く輩出させたい彼の思いをわたしは信じています。

わたしたちは天王星イングレスをきっかけに
見つめることがたくさん出てくるかと思います。

翌日のうお座ステリアムは
海王星を中心としてうお座16度で直列します。
いわゆる通常の「うお座祭り」とはちょっと違います。
海王星の影響をわたしはうけやすいので
よいものになっていけるように
広島で祈りたいと思います。

今年になり1月の誕生日の直前にアストロキネシのリチュアルが終了し、
その後慶太さんのセッションを受けて
これまでわたしを制限してきた存在から
徐々に開放されつつあります。
それ以降いろいろなことが変わってきています。

この先のトランスフォーメーション。
私自身どう変わっていきたいのか
もっと自分を見つめていきたいと思います。

さて、明日20日から福岡ですよ(一泊だけど!)
久々の福岡は春一番が吹いたみたい。
わたしにも早く吹くといいな~


最後までご覧いただきありがとうございます。

DoingよりBeing ~ わたしとしての「あり方」を生きる

-
光の錬金術師れいあ
はい、れいあです。

わたしのセッションで一番大切にしていることは何か?といわれたら、

「在り方(Being)」

という一言につきるかもしれません。

自分というものを知り、どうありたいのか。
それはわたしの魂の成長とともに変化しています。

自分を愛しなさい

といっても、なかなか感覚としてわからないということはよくあることです。

自分を好きになることって
それをむつかしくさせていた環境にあるほどに感覚を得難いとは思うのだけど

自信がない、自己否定してしまう

というような問題の背後には

自己価値

についてがあることが多く、さらに追っていくと

自己尊厳

にいきつく(わたしがそうだった)


自己の尊厳と

「あり方」

というのは、わたしの中ではほぼ同義になる。

ハートだけではなく、魂だけでなく、
ハイヤーや自分というものすべて含めたものが、結果的に

「あり方」

につながるのだけど
これを認識できると世界の見方が変わってくる。
そしてそれはEnlightment(悟り)ともつながっているようにわたしは思ってる。

これに対し、旧約聖書の出エジプト記にある、十戒などの

「あってあるもの」

という表現がある。
この場合

YHVH(ヤハウェ =神)

をさすものである。

同じく出エジプト記に

“I Am that I Am"
(私は私である)

という言葉があるのだけど
それがいわゆるエネルギーすべてが自分自身であるという意味であり
カトリックでの「人間の尊厳」でもあり
仏教での「仏性」
にもあたるものである。

これをエネルギーシステムの見地からいえば
人間は地球の磁場と同じようになっていて
地球にN極とS極があるように人間にもこれがあって
これをトーラスエネルギーと呼ぶ。

これはいわゆるオーラとは違うのだけど
電磁場システムともいえる。
Energy-Anatomy.jpg
チャクラでいえば
第1と第7チャクラの関連性。
人間の体はリンゴの芯
トーラスはリンゴ本体
みたいな感じになってる。

トーラスは経絡とのつながりも大きく、
任脈と督脈の関連性みたいなものが電磁場になっている。



こんなことを書きたくなったのも
今日のセッションは、まさに
わたしがこれから行っていくであろうテーマでした。
お客様は今回が2回目。

最初、引き出された言葉として

「魂の目的に近づけるために好きなことをする」

と出てきたのですね。
話はSNSのことになり、

「いいね👍は自己価値になりうるのか」

という話になりました。

正直わたしは「いいね」の数を競い合うことはナンセンスだと考えるタイプであって
ある種の暴力性を感じてしまうのです。
マウンティングとかそういうたぐいの精神的暴力性ね。

そんなわけでわたしに限っていえば、SNSでの発信は控えています。
エネルギーの交流の場では、わたしはわたしを出せないと思うからです。
エネルギーの情報が、氾濫しているTLはわたしを疲れさせる。

そんなわけでお客さんから出てきた言葉は

「自分の価値は自分で認めればいい」

って、本当、それなw

自分の価値は自分で決めるものであって
誰かに決めてもらうものなんかじゃないんですよ。
その話がさきほどの

「あり方」

と関係してくるわけなのです。

そしてお客さんから次に出てきた言葉は

「どれが本当に大切なことなのか」

ということ。
その見極めです。

何が必要で、なにが必要でないか。
取捨選択とでもいうのでしょうか。
それはヒト・モノ・コト、すべてにおいてです。

よく断捨離っていうけど
モノを捨ててすっきりできても
肝心のエネルギーコードを捨てられていないケースも多々あるのです。
捨てるときにどんな意志をもって、どんなふうに意図して捨てるのかです。
ここでは書きませんが、その捨て方にもコツがあります。

余談ですが浄化にしたって
浄化グッズをいくら買い集めても
それに適した浄化法があり、
物を必ずしも使わなくてもよいのです。

わたしがスピリットに教わったことは

「浄化=塩 と考えるな。
塩で浄化することでとばっちりを受けることもあるぞ」

でした。

あくまでもわたしのメソッドですが
わたしは四大元素による浄化法をとっています。

土に帰る
風になる
水に戻る
火をあぶり浄化することで神に戻る

そんなふうに、それぞれ用途に適した浄化法があるのです。

セッションの話に戻ると

「表現することでかかわりを持つ人を増やす」

という言葉が出てきたのですが
これはその前のセッションでもそうでしたが
情報をアウトプットすること
がテーマにおかれたのですね。

今回は、どんな人たちにアウトプットしていきたいかになりました。

そしてこんな言葉が出てきました。

「自分が大事に想う人たちを増やしたい」

その根底にあったことは

DoingよりBeing 

それは

「本質で生きることで自分を輝かせること」

であり

「あり方」

がテーマとなってくるのです。

「れいあさんのところで悟りを開きたい」

とおっしゃるお客様が何名かおられます。

でも残念ながら、わたしは悟りを開くために生まれてきたわけではありません。
わたしはあくまでも自分の生き方を追求していきたい。
それが本質で生きることなのです。

悟りを開くことは、わたしにとっては本質で生きていくための手段にすぎません。
さらにいってしまえば
悟りを開くことをマウンティングに使うことはあってはならないと思っている。


地球上における「悟り」という発想は、わたしが思うには
地球をこじらせてしまった原因なんじゃないか(戦争とか)とすら思っているんです。
仏教的にいえばというかんじですが
キリスト教的に言えば「選民思想」のようにもとらえられます。
正直言ってアセンションって、わたしが思うには選民思想でしかないんですよ。

だって、宇宙的にみてそれが本当の愛なのか。。。ってことですよ。
かつてグローバルな地球意識でとらえていたことが
今度はユニバースの宇宙意識でとらえていく時代になっています。

霊的にあなたより上か下かは神様が決めること

だって思うのです。

だからわたしたちはかつての宗教が残したものをいかに、どんな視点で受け止めるかだと思っているのね。

わたしにとってみれば
覚醒するしないは眼中ないというか、古い考え方というか、
地球的な学びにすぎず、宇宙の学びではない気がしています。


ぶっちゃけ、言おう。
正直、これから先の生き方に「悟り」は必要ないって思っています。
地球のカルマをふやしていくだけじゃないかと思うんだ。
何を言いたいかって?
このような悟り&選民思想が闇の世界からきていることを伝えたいのさ。
そこにある太陽と思ってあがめていたものは
本当の太陽なのかってこと。
マインドコントロールなどの手口としてコールドリーディングの手法をいまだに使う宗教家や占い師は後を絶たない。

何度もいうけど、
いかに自分自身に正直に、素直に、本質に向き合って生きていけるのか。

そんな

あり方

をわたしは育てていきたい。

私自身だけでなく、大切な人たち、お客さんにも
自分の在り方で生き、
その個人に与えられしものを生かしていってほしい。

そう思うのでした。

自分の「あり方」で生きることってどんなことなのでしょうか?

きっとたぶん、アレだ。

人生と恋に落ちること

なんじゃないかな。
そんな気がしてる。

Life is a Dance!

なのです。


最後までご覧いただきありがとうございました。



いまきたメッセージを伝えておこうと思う~シンクレティズムと臨床パストラルケア

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光の錬金術師れいあ
シンクレティズム。

神仏習合を日本人としてどう受け入れるのか。
これは、移民問題とも関係してくるので
真剣に宗教に対して、個人個人が見つめていかなければならない時期が迫っている。
日本にはもともと、民族的な信仰もあるからだ。
お墓の問題も、目にはいれにくいが色々と発生している。
檀家問題とは別にある。
死後の世界を、我々は普段向き合わずして生きている。
肉体を失ってからのことは、スピリチュアルの領域だが
現在のスピリチュアルブームにおけるスピリチュアルカウンセリングなどは、極めて現世的なものばかりだ。
スピリチュアルなケアに、言及せず、
いかに高次元とつながるか、またはなにかを引き寄せるかでしかない。
わたしは魂のリトリーバルを考えている。
魂を救済していかなければならないんだ。

日本では、葬式宗教などと揶揄されている仏教。
しかし、死ぬ間際に、
どう生きてきたのかを見つめることになるのだ。
どう、生きるかは、どう死ぬかだ。
どう、死ぬかは、どう生きるか、なのだ。
逃げてばかりもいられない問題だ。

つまりは臨床パストラルケアを本気で考えていく段階にきているのだ。
これは、深刻なスピリットの闇につながっている。
病院では、スピリットのケアをしていくことが必要なのに、
いまだにどうして、肉体的側面からでしか、とらえられていないし、
医学はスピリットを受け入れていない。
そこで臨床パストラルケアワーカーが必要になるのだ。
臨床パストラルケアワーカーを積極的に受け入れていく病院を増やさなければならない。
彼らは様々な霊性を、様々な宗教や哲学を学び、尊重し、
どんな死後を迎えたいかを考えていく。

実は宗教の自由ほど自分を縛っているのだ。
すべてが自己責任になるからだ。
スピリットの世界からみればすぐわかるが
人間は思うほど自由じゃなく、
ほとんど自由などないからだ。
与えられている自由は、自由意志。
選択の自由のみだ。

戦後の日本から宗教的アレルギーがひどいことが原因だ。
世界的にみれば、
三大宗教を受け入れている国々は多く、
しかし、聖地エルサレムを巡る戦争も絶えない。

宗教的包括主義として日本人が行うべき心得がある。
他宗教を表立って攻撃せず、
その教えに一定の価値があることを承認し、尊重することをスピリットたちは望んでいるのだ。

時間は、ない。

※ 宗教的包括主義(Religious inclusivism)とは、
他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、
究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想。

※ 臨床パストラルケアとは|臨床パストラル教育研究センター
http://pastoralcare.jp/care/449.html

霊的(スピリチュアル)苦痛とは、霊・心・魂が求める欲求(ニーズ)が満たされない時に痛みが発生しその痛みが「叫び」によって表現されます。
その叫びに応対する(ケアする)のがスピリチュアルケア(霊的ケア)です。

スピリチュアルな欲求には哲学的ニーズと信条のニーズがあります。

哲学的ニーズとは人生の意義や意味を求めることです。
すなわち、生きる事、死ぬ事、働く事、楽しむ事、苦しむ事、悲しむ事、無力である事、孤独である事、疎外されていること等の意味付けです。

信条のニーズとは超自然の存在や神、永遠の生命、死後の世界、天国と地獄、魂や霊の働き、祈ること、希望、良心、罪や罪悪感、罪の許し、感謝と賛美、のようなものです。

(再)ニヒリズムと幽玄の世界

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はい、れいあです。

今日はヴァレンタインですね。
すっかりヴァレンタインは私の中で「ネタ」になってしまうくらいになっちゃったけどwww
しかーし!これって、なんていうの?いわゆる

モテ期到来!

しちゃったのかしらー。。(女性から

ていうかとにかく初めてなのです。
セッションはじめて今年で7年になるけれど
昨年まではこんなことなかったの。というのは
なぜか皆さまから

「れいあさん・・・バレンタインなので・・・」

ってチョコレートを毎日もらい続けるという。。。
あ、いや、催促じゃないんですよ?
こんなにチョコをバレンタインにいただくの

高校時代以来だわ~~~!!

高校時代はわたくし女子クラスに近いくらい
クラスに男性がいませんでした
男女比3:1ってかんじだったんですよ。(女性3です。
でもなぜか。。。

ヴァレンタインにやたらとチョコをもらいました。

同じくらいもらっている女性がいて
背が高くて宝塚ファンの女性で、本当に
○○様~~!
という王子様キャラの女性だったのですけど
女子クラスなんて、そんなもんなのかなってくらいに
いわゆる女子同士のいちゃつきが多くて(笑;;

わたしはグループに属するのが苦手なため
お昼なんかは毎日いろいろなグループに顔を出して食べてて
ついでに職員室でも食べたりなんかして
ジプシーみたいにね。
一応学級委員をやったりもしてたんだわ。。
結構まわりがガキに思えてしまっていたわたしは

「おまえら本当ガキだよな」

ってかんじのこと言ったりする子で
性格はかなりクールだったな。
熱いけどクール、みたいな人でした。
でも思えばわたしってもともとそんなだったよなって思ったりしました。
クールだからか「怖い」って、社会人になってからもいわれてたんですが
そういわれるとね。。

「もっと怖がらせてやろうか?」

ってからかうのでますます怖がられてしまうとかね。

「きゃー!れいあさんカッコイイ!」

ってかんじでいわれてたんですよ??
いまでは

「れいあさんってふかふかしててぬいぐるみみたい!」

っていわれてますがw

なんていうか、腐女子ですよね、わたし・・・
腐女子ノリが当時はわかってくれないというかね。
そんなわけで腐女子の諸君、セッションで待ってるからなw

3月はまだ上からOKでません。
どうなっちゃうのかわたしにもわからないです。。。

・・・というのは前フリだったわけですがw

昨日のセッションで、
とあるわたくしの過去記事が
ヒントになるという情報がきまして
久々に見た記事だったのですが
10年前の記事になります。

このときから多少は考えが変わったけど
ああ、根本は一緒だなぁと思いながら
こちらに再掲しようと思いました。

わたしは20代のとき

間 の美学

についてずっと考えていました。
そんなこんながベースとなっている
いわゆる「れいあism」というか
わたしの生き方を書いた10年前の記事でもあります。

では、どうぞ!

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ニヒリズムと幽玄の世界(2009.11.03の記事)

三次元的なマジョリティの中に生きるか、
それとも多次元的なマイノリティの中に生きるのか。

それはわたしの命題でもあった。
「群集」は常にわたしを疲れさせる。

宇宙は常に変化し、
絶えずエネルギーは流れ続け、
変わり続けていく。
生成流転する諸行無常のこの世界。
きっと、今は、旅の途中・・・

全ては夢であるのか、それとも
全ては夢であったのか…

どちらにしろ三次元では
制約や束縛が多すぎる世界ということに変わりはない。
そもそも肉体に入ること自体、魂の束縛なのだ。

だからこその「期間限定の学び舎」であり、
今の世でなしえなかったものは休息を経て
また次の世で宿題として取り組むことになる。

これが一般的にいうカルマ、とか業といわれてるものだけど
量子論以前の因果律の考え方では
過去-現在-未来・・・という時空の軸を加えた四次元までに見られる、
(※注:8次元だとダウジングではいわれましたw)
ある特徴的なサイクルにみられる発想にすぎない気がする。

色即是空、空即是色。

般若心経のこの考え方は、
仏教用語の「空」(スーニャタ)についてがメインだけど
2世紀の僧であり仏教哲学者のナーガールジュナ(龍樹)がこれらを体系づけた。
龍樹は「存在」という現象も含めて、
「あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っている」という。

肉体も、魂ですら「空」であり、
つまりはもともと、魂なんて存在しなくて。

やなことがあった、辛いことがあった、楽しいことがあった、幸せ・・・
でも、そんなものなんてみんな、はじめっから何もないものだということか。
一方で万物は因縁(過去に何らかの原因がある)により生成されているという。

しかしこの考えは虚無、つまりニヒリズムではないという説もある。

わたしはそんな10代を過ごしてきたこともあり、かなりのニヒリストだった。
虚無の世界の中にわたしは長く生きていた。

世の中には、そもそも、何も存在しないという思想が、「あちらの世界」を見るまでは、ずっとあった。
わたしがここに見る愛しい誰かの存在も、みな、幻にすぎないのだ。

そう。恋愛だって所詮、幻想にしかすぎないのだ。

「この世を去れば、どうせ、風になるだけだ。
どうせもとから何もなかったのならば、あたしはあたしという存在をすべて消してしまいたい。
自分という肉体的な存在だけでなく、あたしを少しでも知る、誰かの記憶のすべてから、
あたしという存在をみんな消してほしい」

かつてのわたしはずっとそう思い続けてたんだ。

魂なんて、そもそも存在しないなら
わたしは「空」になりたい

そう、ずっと願っていたんだ。

そして、それはいつのまにか
タナトスに向かって生きていくことになっていったんだ。



不老長寿は昔からの人間の夢かもしれない。
しかし人間は科学や医療の力にあまりにも頼りすぎている。

これらは輪廻転生のサイクルを無視している気もしてならない。
この「サイクル」の中に絶対的に組み込まれているものは「自由意志」だ。
つまり、先ほどもちょっと書いた因果律と関係してくる。


その昔、19世紀に「ラプラスの悪魔」という言葉があった。

これは万物の創世主や神とよばれる「絶対的存在」についての概念であり
ラプラスという学者がそれを「知性」と呼んだものである。

自由意志は神の意思であり、
いわゆる生まれて来る前にすでに運命としてプログラミングされている

とでもいうべきか。



形あるものには限界がある。
それは三次元の世界に肉体をもつ魂ならではの苦悩、であり、喜びでもある。

たとえば肉体であれば、そのメンテナンスを定期的に行うことで、
ある程度「限界」を引き伸ばすことができる。

倫理観の問題になってしまうけど、本人の意思とは違い、延命を続けることがある。
そこにあるのは”ソースに帰ろうとする人”と”関係するたち”の
「感情」とか「意思」といった「ある種のコードの場」だとわたしは感じている。

このデリケートな問題について「準備」することは、わかってはいても感情で難しいものだ。
そして最終的には「自由意志」が判断するということになる。

わたしは自分が抜け出た状態になったことがあるので、そのどちらもわかるつもりだ。
あちらの世界は、もちろん三次元の世界ではなく、また四次元でもない。
なぜならば時間や空間といった軸が感じられなかったから。

前にも書いたけど、そこは瞬時にすべてが伝わる世界でした。
そこに言語などは存在しない。
ただ、ただ、感じる、それだけです。
しかし、かといって無機質な空間でもありませんでした。
しかしわたしが体験したのはどの次元だかわかりませんが、
その次元には肉体に近い感情はありませんでした。
(※注:2000年にした臨死体験の感覚をいっています)

そういった感情体がいわゆるカルマとして四次元レベルに残るんではないかなと思うのです。
わたしが体験した次元にあるのは感覚であり「無限の安心感」です。
それは「とてつもなく大きな何かに包み込まれる感覚」なのです。

さきほどの「空」の議論は、今でもされてることですが、
もともとは釈迦が悟りを開いて解いたものを龍樹が体系化したもの。
しかし、わたしの体験したそれは、まったく何もない無の世界、ではありませんでした。
物体が見えない、という意味では「まったく何もない世界」といえますが
色はついていたし、暖かさといった「感覚」はありました。

よく天国を表現する言葉で、楽しいとか、幸せといったものがありますが
そういうものともまた違った場所なのです。
では何かといえばヒトコトでいえば「安心できる空間」であるということです。
しかもその「安心感」は普遍のものであり、永遠です。

わたしがその世界から戻ったとき、子宮のようなものを通った感覚になりました。
この世界に戻ってきたとき、あちらの場所での安心感と胎児が子宮の中で感じる安心感は
ある意味非常に似ているのだ、ということが直感的にわかりました。
そうだ、ソースに帰るあの場所は、あの世界はきっと宇宙の子宮のような
どこかの絶対的に安心できるスペースだ、そんなふうに感じました。



魔術のワザ?のひとつにアストラル投射というものがあります。
わたしは儀式魔術をする以前から、するりとアストラル体が抜けてしまうクセ(体外離脱)があったのですが
このアストラル投射とは体外離脱旅行みたいなものです。

かつて
「オーラの層とチャクラの関係」
についての記事を書いたことがあります。

神智学では肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、ブッティ、アートマ、モナドの7つにわかれるとされています。
エーテル体は肉体とほぼ同じもので、エーテル体の死が人間の死であると、
確かその昔神智学の本で読んだような・・・(うる覚えですがw)
さきほどの体外を離脱するのがこのアストラル体です。
さらにそれを覆うようにメンタル体があり、
コーザル体より上はハイアーセルフ、神の領域とされています。

ここでいうモナドについてはドイツの哲学者であるライプニッツのモナド論からきています。
宇宙はこのモナドなる「自然界を構成する最小単位」によって、これに心的要素も含み、
最終的には神によって全体的にあらかじめ調整されてできたものだという説を「予定調和」と呼び、
これは神智学のオーラの層の考えの基礎にもなりました。

このライプニッツのモナド論はグノーシスや新プラトン主義とともに
現代オカルティズムの世界に大きな影響を与えた考え方でもあり、
これに過去と現在、未来という時間軸といった「因果論」を取り入れたものが
ユングのシンクロニシティ論の発想の原型だったといわれています。

わたしが垣間見た世界というのは、この時間の軸が一切ありませんでした。
そして神智学をベースとしてみれば
下位三体のものではあきらかになく、コーザルよりもさらに上の世界でした。
体を抜け出た先の光のカーテンの向こうの世界というのは
まったくもって別の次元とでもいうべき世界だったのです。
しかし、どんなにあのときの感覚を思い出して研究したところで、
結局次にこの世界を感じるのは、わたしがこの世を去るときなのかもしれません。
あれはアストラルレベルの次元ではなく、本当に不思議な感覚で今でも忘れられません。



そもそも形あるものは変化します。
その変化もまた、美であると
日本人の古くからの発想にあります。
その発想は形あるものだけを見ているわけでなくて、
もっと深く、遠い、無限の世界をみているようにも感じます。

わたしは、形あるものの有限の中にあるからこそ、
すべては美しいし、いとおしい、
と思っています。

そしてそれを感じるものこそ情緒、なのではないかと。
それは極めて三次元的な様式美なのではないかと思います。

禅文化についてもっと詳しく知りたいという人には鈴木大拙の著書がオススメです。

どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる(妙)が存する。
これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点である。
真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。
 妙はときとして日本文学において(幽玄)と呼ばれる。
ある批評家は、すべての偉大な芸術作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは変化の世界における永遠なる事物の瞥見、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。
すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしりでて、妙と幽玄とを呼吸しつつ各種部門の芸術に自己を表現するのである~鈴木大拙/禅と日本文化



有限、つまり限りある世界は「幽玄」の世界とも通じるってわたしは思うんです。
つまり限りある「カタチあるもの」の世界は常に変化し続けるものだと思うし
その変化の中にあってこそ「刹那の中の永遠の美」のような世界を垣間見ます。

そこにあるのは時空を超えた超越的な空間美すら感じられる。
たとえばサクラの季節とか、刹那の美しさがある。

かつて小野小町は

”花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに”

と詠い、桜の花を見て自分の美しさが変わっていくことをむなしく感じたようですが
ものの姿には「艶」と「あはれ」があると紀貫之はいっています。

紅葉には「もののあはれ」を感じさせると思いませんか?
この「あはれ」の心は中世には「幽玄」へと変わりましたが
昔の人は歌を歌う前に、まず「心」があるといってたのかなと思えます。

__刹那の中に見える永遠の美

これはわたしの中にある美学です。
宇宙の営みの中でわたしたちの一生というのは、星の瞬きにもすぎない。
でも一呼吸ごとにそれぞれの生命の息吹というものは必ずあって、
それらひとつひとつがすべての存在を作り上げている。
だからこそ、


すべての存在に、感謝____

そして、今、このときを生きよ。


と思うのです。

有限から生まれる出ずるものは、所詮有限でしかないのです。
医療も科学も未知数とはいえ、その未知数は人間が想像する範囲の未知数でしかなく
つまりは未知数という発想そのものの考え方に限界があることに気付かないといけない。

一方でそれは肉体レベルで生きてるあたしたちにとっては、有益なものでもある。
しかしこれらを過信しすぎても、単なる信仰にすぎなくなってしまう。



アガペーとは神への愛をさす言葉です。
タナトスは本能的な死への欲求です。

そしてエロスは人間同士の性愛であり、
それに対するエネルギーはリビドーとフロイトは定義しました。

リビドーの流れはいわゆるクンダリーニと同じもので
第二チャクラの創造的エネルギー。
創造的エネルギーは子孫を繁栄させるような「創造」だけでなく
何か新しく生み出す、作り出していこうとする原動力でもあります。

形あるものを作り出そうとするエネルギーがリビドーであって
形あるものを破壊しようとする欲求がタナトスだとあたしは思うんですね。

しかしタナトスの破壊欲求が本当にめざしたかったものは、
おそらくは神の愛、つまりはアガペーであったのではないかと思うのです。
それは形なき無限のもの、つまりは
永遠への本能的欲求であるのではないかとも思えるのです。

自由を求めるとき、たいてい、そこには束縛が対等してあるものです。
一方、束縛とは有限、です。

我々は束縛の中にこそあって
自由に対し憧れを抱く生き物なのです。

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